第88話 遅滞戦術
黎明の霧がまだ大地を覆う頃、ビック領の見張り台に立つフリードとヴェゼルの目に、平原に広がる大軍の影が映った。
霧の向こうに無数の旗がはためき、整然と並ぶ歩兵の隊列、馬のいななき、武器の輝きがちらりと光る。
その数、およそ五千。左右の森には千ずつの兵が展開し、正面には三千の歩兵。騎馬隊は五百、さらに魔法部隊が約七十。
そして、その中心――本陣には金と黒の旗印、サマーセット伯爵家の紋章が翻っていた。
「……来たか」
フリードは低く息を吐き、剣の柄を強く握り締めた。百の自領の兵、村民たち――対する五千の敵。数字だけを見れば、勝敗は明白だった。
その時、敵陣から白旗を掲げた一団が馬を進める。鎧に身を包んだ使者が高圧的な声音で告げる。
「領主フリード殿に伝える! サマーセット伯爵スタンザ様より勅命である。ビック領は即刻降伏せよ。領地、財貨、民を差し出せ。さすれば命だけは助けてやろう」
広場にざわめきが走る。背後に控える村人たちの顔に恐怖が広がった。小さな体で剣も持たぬ人々の目が、青ざめる。だが、そこに一筋の赤い意志が立った。
オデッセイ――領主の妻であり母であり、戦の最前線に立つ覚悟を秘めた女性が、恐怖を振り切り、ゆっくりと一歩前に出た。その瞳は烈火の如く赤く、声は氷をも溶かすような凛とした響きを帯びる。
「我らは降伏などいたしません!」
使者は笑みを浮かべ、嘲る。
「百ばかりの農民風情が、五千を相手に抗うと? 愚かしい!」
しかしオデッセイは怯むことなく、さらに声を張り上げた。
「あなた方が欲しているのは我らの命ではない! ホーネット酒、知育玩具、穀物、シロップ――それらを失うのを恐れるから、降伏を迫るのでしょう!」
その言葉に使者は一瞬、表情を硬くした。図星だったのだ。オデッセイは間髪入れず続ける。
「ならば時間を与えてください! 生産者たちを説得し、すべてをあなた方に差し出すようにいたしましょう……ただし、三日だけ。三日だけの猶予を!」
彼女はさらに踏み込み、ベクスター男爵にヴェゼルとアビーの婚約についての交渉も申し入れると。
これによりクリッパーがもしもアビーと婚約したならば、その正当性も保たれる。
小さな領地の主婦でありながら、政治的駆け引きを繰り出すその姿に、敵の幹部たちは眉をひそめ、声を荒げる。
「戯言だ! 一刻も早く叩き潰すべき!」
「この女、時間稼ぎを……!」
だが総大将クリッパーは腕を組み、薄く笑った。
「……面白い。三日で降るというのなら待ってやろう。逃げても無駄だ。その時は根こそぎ滅ぼせばよい。所詮数日遅いか早いかの問題だ」
幹部たちの抗議を押し切り、クリッパーは三日の猶予を認めた。その胸中には、下卑た期待もあった。
――もしこの間にアビーの婚約が解消されるなら、自分が娶る可能性もある。尚且つ正当性が担保されるのなら、大歓迎だ。
こうしてビック領は、文字通り一縷の望みを持って三日の時間を得た。
だがその代償として、オデッセイは敵陣の前で罵倒され、笑われ、石まで投げつけられた。
手荒い侮辱が飛び交う中でも、彼女は毅然と背を伸ばし、静かに領地へ戻る。
その姿は、村人たちにとっても、ヴェゼルにとっても、希望の象徴だった。
「お母さん……」
ヴェゼルは血の滲むほど拳を握りしめ、怒りと決意を全身に満たす。
オデッセイの辱めは、無駄にしてはならない。この三日間で、必ず勝利への道を切り拓く――アクティの笑顔を取り戻すため、そして村の未来を守るために。
霧が少しずつ晴れる平原を見渡しながら、フリードもまた剣を握り直した。百の命と村民たち、そして愛する家族のために、今こそ全力を尽くす瞬間が来たのだと、彼は深く胸に刻み込む。
朝陽が雲間から射し込み、五千の影を赤く染める。平地に漂う戦の気配は、静かながらも圧倒的な重みを帯びていた。勝利は確かではない。しかし、オデッセイもフリードもヴェゼルも、そして村人たちも、誰一人として退くことはない。
黎明の平原。霧が晴れ、運命の三日間――そして最初の戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。




