第86話 明日で10日 戦いの前日
夕暮れの光が赤く村の屋根を照らし、空の端はすでに紫に沈みかけていた。
土の匂いが濃く漂う広場には、数百の村人が集まっていた。
手には削られたばかりの長槍、あるいは石を詰めた革袋、そしてまだ焼き窯の温もりを残す焙烙玉。緊張と期待が入り混じる気配が、あたりを包んでいた。
フリードは人々の前に立ち、静かに一人ひとりを見渡した。大木を打ち込み、汗にまみれた木こりの顔。
慣れぬ槍を手にしながらも家族を思い、真剣な目を向ける若者。震える声を押し殺し、幼子の頭を撫でながら背筋を伸ばす母親。
九日間、彼らと共に過ごしたすべてが、この光景に集約されていた。
彼は剣の柄に手を置き、声を張った。
「みんな――ありがとう」
ざわりと人々がざわめいた。領主フリードからのその言葉は、彼らが想像していたどんな命令よりも重く響いた。
「この九日間、俺はお前たちと同じ道具を手に取り、汗を流してきた。畑を耕す手で木を削り、薪を運び、槍を磨いた。お前たちが築いた防壁も、焼いた陶器も、すべて俺の目で見てきた。……誇れ。お前たちは立派に戦支度を整えたのだ」
彼の声が広場を渡ると、村民たちの胸に小さな炎がともった。
「だが、俺が言いたいのは一つだけだ」フリードは剣を抜き、地に突き立てた。
「この戦いで俺は、必ずみんなを守る! この領地も、この家族も、そして俺たちの未来も!」
最初に声を上げたのは一人の若者だった。震える声で、それでもはっきりと。
「……戦うのは初めてだが、やるしかないな!」
続いて別の声が重なる。
「アクティ様を取り返すためだ!」「畑や家族を守るんだ……!」
その声は小さな波紋となり、やがて大きなうねりとなって広場を満たした。誰もが己の恐怖を超えて、隣に立つ仲間と声を合わせる。
「戦うぞ!」「守るぞ!」「勝つんだ!」
フリードは胸に熱いものを感じた。これが民の力だ。この九日間、フリードは彼らにただ「戦の道具」を与えただけではなかった。
自ら先頭に立ち、木を削り、土を掘り、汗を拭う姿を見せ続けた。その姿が村民の心を結び、恐怖を勇気へと変えたのだ。
一方で、オデッセイもまた、陰で人々を支えていた。彼女はいろいろなものを煎じ、怪我人を癒し、食糧を分け合い、母たちを集めて子供たちの面倒を見た。
疲れ果てて眠れぬ夜も、彼女が微笑めば人々は少しだけ安心できた。そのオデッセイが、今度は人々の前へ進み出る。目の下にうっすらと隈を宿しながらも、声は強く澄んでいた。
「皆さん、ありがとう。あなたたちの力があって、私たちはここまで来られました。怖いと思うのは当たり前です。
私だって怖い。夫や子供たちを失いたくはありません。でも――だからこそ戦うのです」
彼女は両手を胸に当て、真っ直ぐに言い切った。
「家族を守るために。帰る場所を守るために。そして、必ずアクティを取り戻すために!」
その言葉は、母であり妻である彼女だからこそ、人々の心に響いた。子を抱いた女が涙を拭い、老人が杖を握り直す。少年が唇を噛んで頷く。
夜更け。焚き火の炎を囲むように、戦士たちと家族が集まっていた。炎に照らされた影の中で、一人がふと呟いた。
「俺たち百人で、五千に抗えるのか……?」
その不安は、皆の胸に潜んでいた。
だがフリードは炎を見据え、剣を抱いたまま静かに答えた。
「……勝てるさ。俺たちには、帰る場所を守りたい気持ちがある。数では敵わぬかもしれない。だが、心では俺たちが勝っている」
沈黙のあと、ひとりが小さく頷いた。
「そうだ……守るんだ」
続いて二人、三人。やがて全員が「そうだ!」と声を合わせ、炎が轟くように広場を包んだ。
こうしてビック領の百人は、五千の軍勢に抗うための支度を整えた。彼らの背には、必ず帰ってくるはずのアクティの笑顔があった。
そして――宣戦布告の当日が訪れる。
灰色の曇り空の下、村の広場に再び人々が集まった。戦の火ぶたが切られるその朝、ヴェゼルがぽつりと呟く。
「……あと三日あれば」
その声にオデッセイが微笑みを浮かべる。
「大丈夫。なんとかしましょう。私たちには、ここにいる皆がいます」
フリードはその二人を見て、深く頷いた。
「恐れるな。俺たちは九日間で奇跡を築いた。ならば今日もまた、奇跡を起こせるはずだ」
彼は再び剣を高く掲げ、全員に告げる。
「立て! これは生き残るための戦いじゃない。未来を掴むための戦いだ!」
村人たちの声が応え、曇り空を震わせた。
その声はやがて、迫り来る五千の軍勢に向けられる。
ビック領百人の戦士たちの決意が、ついに形となった瞬間だった。




