第84話 ルークス達の潜入
夕暮れ、まだ赤い光が村の屋根を染めるころ。
ルークスとトレノ、そしてジールは馬を駆って西門を越えた。
「……ジール、トレノ、大丈夫か?」
ルークスが手綱を引きながら声をかける。
彼自身も胸の奥に焦燥を抱えていたが、隣の若者たちの決意を見て、あえて口調を柔らげた。
「大丈夫です。母の顔を見たら……もう黙ってはいられませんでした」
トレノは真剣な目で前を見据える。
「それに、アクティ様は僕にとっても妹のような存在です。必ず連れ戻します」
ルークスは短く笑みを浮かべた。
「そうだな。お前がいてくれると心強い」
その横で、ジールが小さくうなずいた。
「俺も力を尽くします。……サマーセットの連中の道筋には、まだ多少は心当たりがあるので。きっと役立てるはずです」
「さすがだな」ルークスは頷く。「この土地に明るいお前がいるだけで、道を誤らずに済む」
三人は森を抜け、土道を西へと進む。
商人仲間からの情報をもとに、サマーセット領へ通じる街道沿いの村や宿場を探ることにしていた。
最初の手がかりは、村外れの古びた酒場だった。
馬を繋ぎ、暗い室内へ入ると、そこには酔っ払った農夫や旅人が数人たむろしていた。
ルークスは慣れた調子で店主に話しかける。
「親父さん、最近妙な連中を見なかったか? 五、六人の男で、大きな袋を運んでいたはずだ」
店主は眉をひそめる。
「……ああ、見たよ。あんたの言うとおりの連中だ。やけに急いでたな。『伯爵様の荷だ』とかぶつぶつ言いながら、西へ行った」
トレノが身を乗り出す。
「何か特徴は? 服装とか、馬の数とか!」
「馬は二頭、荷馬車が一台。袋は……時々動いてたような気がしたな。まるで中に人でも入ってるみたいに」
トレノの拳が震える。
「やはり……アクティだ」
ルークスは彼の肩を押さえ、冷静さを促す。
「落ち着け。今は確証を得るのが先だ。焦れば尻尾を掴ませられん」
その横でジールが低くつぶやいた。
「“伯爵様の荷”か……あの領のやり口なら、囚人や人質を貨物同然に扱うこともありますね。
でも馬二頭と荷馬車一台なら、速さは出せない。まだ追いつける可能性があります」
二人は礼を言い、すぐに酒場を後にした。
夜、森の中。
焚き火を囲む三人の影が揺れる。
トレノは黙ったまま剣を研いでいたが、やがて、ぽつりと口を開く。
「……ルークスさん、もし敵がアクティ様を交渉の道具ではなく……見せしめに殺そうとしたら、僕は絶対に許せません」
ルークスはしばし沈黙し、炎を見つめる。
「俺もだ。だが、感情に任せて突っ込めば、お前もアクティも命を失う。俺たちの役目は、敵の隙を探り、確実に取り戻すことだ」
その言葉に、トレノはゆっくり頷いた。
怒りを胸に封じ、決意の炎だけを残して。
ジールは火にくべた枝を見つめながら、低く言った。
「サマーセット領の境は近い。……あの辺りには、渡し → 私 が商いをしていた頃の知り合いも残っているはずです。道や集落の様子は大体覚えています。きっとお手助けできます!」
ルークスは力強く頷いた。
「頼りにしているぞ、ジール」
翌朝、三人は再び馬を走らせた。
その先に待つのは、サマーセット領の境界――
そして、危険な潜入の始まりだった。
サマーセット領都は、海にも面していて、古くから交易の拠点として栄えてきた場所だった。
中央広場には青銅の噴水があり、朝には水音を背にして露天商が声を張り上げる。
城下町の表通りには香辛料や織物が並び、旅人や兵士、商人でひしめき合っている。しかし、その華やかさの裏側に、ルークスたちが望む情報が潜んでいた。
ルークスは旅装に身を包み、背筋を伸ばして歩く。その隣でトレノはあえて地味なマントを羽織り、周囲に溶け込むように歩調を合わせる。
ジールは街並みに目を走らせながら、わずかな違和感を拾い上げては二人に合図を送った。
「表のざわめきはいつも通りだが……奥に入れば、別の顔が見えてくる」
ジールは低く呟く。
彼はかつて、この街で裏商売に多少は関わった経験もある。人買いや密輸商、裏賭場の人間まで、その時代に築いたコネクションは今もなんとか生きていた。
まず三人が耳にしたのは、「二日前に領館へ運び込まれた厳重な荷物」の噂だった。
荷車に積まれ、重々しい警備に囲まれて運ばれたそれは、普通の物資には思えない。
兵士たちが通りすがりの住民を威圧するほどの過剰な態度をとったことも、噂をさらに広げていた。
ジールは古馴染みの情報屋と顔を合わせ、銀貨を握らせて問いただす。
「荷車は領館の裏門から入った。兵士が普段の倍はついていたらしい。だが、中身を知っている者はほとんどいない」
情報屋はそこで一度口をつぐみ、銀貨をもう一枚欲しそうに指を擦る。ジールが黙って差し出すと、彼は声を潜めて続けた。
「庭師が一人、知っているようだ。そいつが毎日通う酒場がある」
ルークスは眉をひそめた。「庭師か。領館の内部を知る者なら確かに有力だ」
ジールが頷く。「だが口を割らせるには工夫が必要ですね。酒か、金か……あるいは両方か」
三人はその日の夕刻、指定された酒場に足を運んだ。
煤けた看板には「赤牛亭」とあり、庶民が立ち寄るには値の張る店構えだが、使用人が日々の鬱憤を晴らすにはちょうどよい場所らしい。
扉を開けると、酔客の笑い声と油の匂いが漂った。炉端では肉の串が焼かれ、熱気が室内を覆っている。
奥の席に、年配の男が一人、酒壺を前にしていた。粗末な麻の衣に、日に焼けた皮膚。腰には剪定用の小さな刃物袋が見える。間違いない、その庭師だ。ジールが先に席を取り、自然に隣へ腰掛けた。
「今日は随分とお疲れのようだな」
庭師は訝しげに目を細めたが、ジールが酒壺を指さして店員を呼ぶと、少し態度を緩めた。
「おごりだ。遠慮なく飲んでくれ」
酒が一杯、二杯と進むにつれて、男の舌も滑らかになっていった。
「領館での扱いなんざ、聞けば泣けてくるさ。スタンザ様とクリッパー様の仕打ちは酷いもんだ。俺たち下働きは奴隷みたいに扱われる」
庭師の声には憤りがにじむ。「特にスタンザ様は従者にも厳しい。息子のローグ様ですら喧嘩して幽閉されちまった」
ルークスは静かに問い返す。「嫡男が幽閉? 理由は何だ」
庭師は酔いの勢いで大声を出しかけ、慌てて声を潜めた。
「ビック領への侵攻だ。ローグ様は反対したんだ。だがスタンザ様とクリッパー様は強行を主張して……結局、意見が割れて、ローグ様は離れに閉じ込められた。幽閉とはいえ嫡男だ、食事も寝所も与えられているがな」
そこでトレノが、さりげなく話題をずらすように切り込んだ。「二日前に運び込まれた荷物の話を聞いたんですが、それについても知っていますか?」
庭師は一瞬黙り込み、指先で酒壺を撫でた。その仕草に、ルークスがそっと小袋を机の上に置く。金貨の重みを悟ったのか、庭師は周囲を見回し、声を落とした。
「俺は直接見ちゃいねえが……侍女たちの話だと、その荷物の中には小さな女の子がいたらしい。クリッパー様が尋問したが、少女が何かを口にした瞬間、あの男は烈火のごとく怒り、殴りつけたそうだ。そうしたら、その少女は動かなくなった。そのあと『森に捨ててこい』と命じたと聞いた」
ルークスとトレノの表情が一瞬硬くなった。ジールがさらに身を乗り出す。
「その子はどうなった?」
「さあな。だが運ぶ途中で兵士が怖気づいたらしい。そこへローグ様の執事、ハスラーが現れて少女を引き取ったそうだ。今はどうなってるかは分からねえ。森の餌になったのか、あるいはハスラーが匿っているのか……」
「ハスラーという男は?」ルークスが問う。
庭師は少し目を細めて頷いた。
「あの人は違う。領館の連中とは違って理性的で、下働きにも分け隔てなく接してくれる。
領民からの信頼も厚い。ローグ様と主従で、二人ともまともだ。俺たちは密かにあの二人を頼りにしているくらいだ」
話を聞き終え、庭師が眠気に負けて酒壺に突っ伏したところで、ジールが肩をすくめた。
「どうやら確かな情報のようですね」
ルークスは考え込むように視線を落とす。
「つまり、領館の中で亀裂が生じている。スタンザとクリッパーは強硬派、だがローグとその執事ハスラーは反対派だ。そして、少女の存在……これは偶然ではないな」
「問題は、どうやってハスラーと接触するかですね」トレノが静かに言う。「領館に入るのは容易じゃない」
ジールは不敵に笑った。「だが、ハスラーは領民に信頼されてるようです。探せば必ず足跡は見つかる。俺の昔の伝手を使えば、会うことができるかもしれない」
三人は席を立ち、夜の街へ出た。遠くに領館の尖塔が黒く浮かび上がり、城壁の上を兵士の影が巡回している。酒場の喧騒が遠ざかると、風が冷たく頬を撫でた。
「次の一手は、ハスラーに会うことだな、領館の内情を知る者が味方になれば、この戦いは大きく変わる」ルークスが断言する。
トレノは短剣の柄に触れ、頷いた。
ルークスは口元に笑みを浮かべ、闇に溶け込むように歩き出した。
「さて、昔の借りを返してもらうとしよう。俺たちに必要なのは、扉を開く鍵だ」
夜の街路を三人の影が駆け抜けていった。その先に待つのは、領館の暗部と、まだ見ぬ少女の運命、そしてローグとハスラーとの邂逅である。




