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第83話 悪意

夏の終わり――。


夕暮れの光が差し込む部屋は、重厚な緞帳に閉ざされて薄暗かった。窓の外では、ひぐらしの声が響き、夏の盛りを惜しむかのように長く長く鳴いている。


彼は深紅の椅子に沈み込み、指先でゆっくりと肘掛けを叩いていた。規則的な音が部屋に響くたび、執事エコーは背筋を伸ばし、報告を続ける。


「……ビック領では、近年にないほど好景気に沸いている様子にございます」


彼の指がぴたりと止まった。


「ほう……詳しく申せ」


エコーは一礼して、手元の羊皮紙を広げる。


「教育玩具――あの積み木や学習具は皇都で大いに受け入れられ、追加生産の要請が続いております。また、ハッカ油の製造も軌道に乗り、隣領バーグマン家と共同で増産体制を築いているとのこと。燻製肉についても同様に……」


「燻製、だと……?」


彼の眉間に深い皺が刻まれる。


「ええ。辺境ゆえ魔物の肉を余らせていたそうですが、燻すことで長期保存が可能となり、商品として皇都へ送られているとか。評判は上々で、軍需にも適うと聞きます」


「……なるほど。あの貧乏領地が、食えもしない魔物を金に変えたというのか」


伯爵の声音には、苛立ちと共にどこか押し殺した驚きが混ざっていた。


エコーは淡々と続ける。


「さらに、農作物につきましては――麦こそ並でございますが、ひえ・あわ・そば・大豆などは、他の領地の倍近くの収穫が見込まれております。今年は新たに導入したウマイモなる作物も豊作で、毎年穀物を買っていたのが、今年は逆に売る余裕があるほどだと」


「馬鹿な……」


エコーは唸り声を上げ、肘掛けを握りしめた。


「……そして嫡男ヴェゼル。齢わずか六つにして領政へ参画し、成果を挙げているとか。母オデッセイ――元錬金塔の魔導士も、近頃は活発に動いているようで。……詳細は掴めませんが、一部の者たちは、ビック領は妖精の加護を得たのではないかと噂しております」


その瞬間、部屋の空気が凍りついた。


「……妖精、だと?」


低く押し殺した声。彼の眼がぎらりと光を帯びる。


「はい。ですが、あくまで噂の域を出ません。ただ……」


エコーは一呼吸置き、慎重に言葉を選ぶ。


「ご存知の通り、妖精は百年以上前から人間との関係を断ち、接触は皆無。ゆえに、その噂だけで領民は『特別な守護を得ている』と囁き合っている様子でございます」


「思い上がりも甚だしい……!」


彼は椅子から立ち上がり、部屋を歩き回りながら唾を吐き捨てた。


「辺境の、万年騎士爵風情が……! 我らに仇なす力を持ったつもりか! 妖精の加護だと? 戯言を! そんなもの、断じて許してはならん!」


声が震え、怒りで額に青筋が浮かんでいた。


「……奴らは、我が若き日に見た幻の延長にすぎぬ。だが、民は愚かだ。噂一つで信じ、希望を抱く。――それがやがて、力に変わる。領を潤し、人を集め、やがては我らを嘲るだろう」


エコーは静かに彼を見つめ、口を開く。


「旦那様、如何なさいますか」


彼はしばらく黙し、やがてゆっくりと座り直した。椅子の肘掛けを再び指先で叩く。その音は今度は重く、鋭い。


「……あれを使う」


エコーは眉をわずかに動かし、しかしすぐに深く頭を垂れた。


「……承りました」


「エコー。お前には、あれの監督を任せる。暴走は許さん。だが、今のビック家に打撃を与えるには、あれ以上の駒はない」


「畏まりました」


伯爵の口角がゆがみ、冷笑が漏れる。


「奴らが“妖精の加護”を得たのなら、こちらは“呪い”を贈るまでだ。あやつの存在は、我が手駒として最適であろう」


「……」


エコーは言葉を挟まず、ただ沈黙をもって同意を示した。


彼は暗がりの中で嗤い、憎悪を吐き出すように低く呟いた。


「ヴェゼル……ビック家の小僧よ。お前がどれほど才気を示そうと、どれほど妖精に守られていようと――その運命、必ず我が手で叩き潰してやる。お前が築いた希望を、絶望で塗り潰す。その日を、震えて待つがいい……!」


窓の外では、ひぐらしの声がなおも鳴き響く。


だがその声は、彼の胸奥から滲み出る怨念と憎悪のうねりにかき消され、重苦しい闇が部屋を覆っていった。


夏の終わりの空気は、もはや秋の気配を孕んでいた。


だが彼の心は、燃え盛る炎のように憎悪で煮え立ち、その炎はビック家に向けられてやむことはなかった。


――あやつ。


その名が、彼の口の端で嗤いと共に形を成した瞬間、ビック家の未来に影を落とす宿命の歯車が、静かに回り始めていた。





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