第08話 鑑定の儀を受けに辺境伯の城へ-2
アヴェニスとその父バーグマン・フォン・ヴェクスターと合流して4日目、辺境伯の城へ向かう馬車2台とヴェクスター騎士団の護衛3騎は、森の入り口に差し掛かっていた。
昼間だというのに、森の奥はまるで夜のように薄暗い。背の高い樹木が日光を遮り、枝葉のざわめきが耳障りに響く。
馬車の車輪が小石を蹴る音も、どこか不安げに響く。
鳥の声もほとんど届かず、風が枝を揺らすたびに、ざわざわと不吉な予感を煽る音がする。
馬車は森の入り口に差し掛かり、日差しは木々に遮られて薄暗く、昼間でありながら森の奥はまるで夕暮れのように影が伸びていた。
枝葉のざわめきが耳障りで、馬のひづめが小石を蹴るたびに微かな緊張感が漂う。
馬車内で暇を持て余していたアビーは、窓の外をつまらなそうに眺めていた。
「ねぇ、ヴェゼル、退屈じゃない?」
彼女は背を伸ばして肩を張り、まるで自分は平気だと示すかのように振る舞っている。
しかし目の端は森の影にぴくりと反応しているのが、俺でもわかった。
「いや、俺も……ちょっと怖いけど、あの、退屈じゃないよ」
ぎゅっと座席を握りしめながら答えると、アビーはにやりと笑った。
「ふふ、そう……ならいいけど」
俺は心の中で突っ込みを入れる。「いや、アビー、顔に出てるから!」。
森の奥へ進むにつれ、影が深くなり、風が枝を揺らしてざわざわと音を立てる。
空気はひんやりとしていて、馬車内のぬくもりとは対照的だ。アビーは窓の外をちらちら見ながら、手をぎゅっと座席に押し付ける。
突然――前方で枝がバキッと折れる音がした。次の瞬間、低く唸る声が森の奥から響き渡る。
体長3メートルを超える大型の狼型魔物達十数匹の群れが現れ、牙をむき爪を振り上げ、馬車へと向かってくる。
「魔物のワーウルフ……!」
俺は座席にぎゅっとしがみつき、心臓が胸の中で暴れている。
しかしアビーは、その目に一瞬の恐怖を浮かべながらも、顔を伏せることはしない。
「ヴェゼル、……怖がってないで、しっかりしてよ!」
「大丈夫……俺、守る……たぶん」
言葉にならない勇気を振り絞ってつぶやくと、アビーは一瞬目を見開き、顔に小さな笑みを浮かべる。
「ふふ……ヴェゼル、頼りになるわね……」でも、その笑みもどこか不安げで、いろいろな感情が混じり合った微妙な表情だ。
そのとき、父フリード・フォン・ビックとバーグマン・フォン・ヴェクスターが馬車から飛び出した。
「騎士団は馬車の護衛につけ!絶対に近づけるなよ!」
バーグマンはそう言って、フリードと剣を反射させ、魔物に向かって一直線に走る。
フリードは筋骨隆々の体を躍動させ、バーグマンも大きな体躯で軽やかに魔物に近づく。次の瞬間、剣の閃光が交錯し、魔物は倒れる。次々に襲ってくる魔物と対峙する二人。
だが、すべての魔物がそこに留まっていたわけではない。三匹の黒い影が馬車に近づいてくる。
どうやら小型だが、牙と爪の鋭さは大型と変わらない。馬車を襲おうと狙いを定めたようだ。
「皆様、馬車の中で待機を!」
護衛の騎士が叫ぶ。
反射的にアビーの前に体を出す。こんな体格で守れるのか? という疑問も脳裏をよぎるが、「いや、ここで守らなかったら……」と決断する。
馬車の木枠に腕をかけ、魔物と向かい合う。アビーは「ヴェゼル……!」と小さな声を漏らし、瞳を大きく開く。しかし膝が震えているのは相変わらずだ。
魔物は牙をむき、爪を容赦なく振り下ろす。護衛騎士団は防戦一方のようだ。
心臓は胸で高鳴り、俺は「いや、死ぬ死ぬ死ぬー!」と心の中で叫ぶ。
護衛騎士の一人が叫ぶ。
「しまった!」
そのうちの手負いの一匹だけがするりと騎士を交わし、馬車の目の前に獰猛な牙を剥けて、窓に縋りつく。
しかし次の瞬間、オデッセイが反対側の窓から飛び出した。手には小さな瓶のようなモノが握られている。
母は魔物に向かって短い詠唱を唱え、薄緑色の液体が入った瓶を投げつけると魔物に直撃した。魔物は苦しげに咆哮し、森の闇の中に消え去った。
どうやら護衛騎士も二匹の魔物を仕留めたようだ。
馬車内には一瞬の静寂が訪れた。俺の胸はまだバクバクと鳴り響き、握りしめた座席から手を離すことができない。
アビーも小さく震えながら、頑張っているが、膝がわなわなしているのがわかる。
「……ふぅ……」
この体では、とてもじゃないがあの大きさの魔物に対抗できる気がしない。だが、すぐ隣で微笑む母オデッセイの姿を見て、少しだけ落ち着く。
「ヴェゼル、アビー、大丈夫? 怪我はしてない?」
母の穏やかな声に、俺はぎこちなくうなずく。
アビーも小さな声で「怖くなかったもん……本当に」と言いながら、座席に身を寄せる。
その直後――
「オデッセイ!大丈夫か!」
フリードの力強い声が森に響いた。バーグマンもすぐに続く。「おお、アビー達も、無事か!?」
二人の父親がまるで嵐のように駆け寄ってくる。フリードは剣を手に持ったまま、筋骨隆々の体を軽やかに跳ねさせ、足元の落ち葉を踏みしめて突進する。
バーグマンは大柄な体を揺らしながら、手振りを大げさにして森を駆け抜けてくる。二人で十匹以上の魔物を相手にしても傷一つ負っていない。
「本当に大丈夫だったか!?」
「ふふ、心配しなくても大丈夫よ。ちょっと魔物を退けただけ」
オデッセイは淡々と笑みを浮かべ、両手には小さな錬金器具を握ったまま立っている。
微かに立ち上る緑色の蒸気が、まだ魔物の残り香を漂わせる。森の木漏れ日がそれを照らし、なんだか神秘的な光景に見える。
フリードは全力で駆け寄ると、母の肩を軽く叩き、胸を張って言った。
「よくやった、オデッセイ! 魔物を一撃で仕留めるとは、やはりお前は凄いな!」
「む……いや、あくまで錬金の応用よ、脳筋剣士さん」
母は淡々と返すが、どこか誇らしげな表情だ。バーグマンも駆け寄り、両手を大きく広げて豪快に笑った。
「ははは! 素晴らしい!さすがオデッセイだ、あなたの腕前に恐れ入る!護衛騎士もよく護ってくれた!」
この体では、興奮と恐怖で心臓が破裂しそうだが、アビーも、まだ震えているものの、少しほっとした表情を見せて母を見上げる。
フリードはさらに近づき、母の腕をがっしり握って確認する。
「本当に怪我はないな? 切り傷や噛み跡は……?」
オデッセイは肩をすくめて軽く笑う。「心配ご無用。私は無事よ」
バーグマンも手を腰に当て、満足げに頷く。「ふむ、ならば安心だ。だが、やはり油断は禁物……」
森の中での緊張感はまだ残っていたが、父たちの存在、母の冷静さ、そしてアビーの虚勢の混じった安心感で、馬車内の空気は少し和らいだ。
アビーは俺の横で小さく息を吐き「ふん、怖くなかったもん」とつぶやく。
だが、その手は俺の手にぎゅっと触れていて、震えているのが伝わってくる彼女の小さな恐怖と勇気が混ざったこの表情が、なんとも愛おしい。
父二人は安心したのか、剣を軽く振りながら森を見渡す。フリードは満足げな表情を見せ、バーグマンは「次はどんな魔物が待っていようと、我らが守る」と豪快に笑う。母オデッセイは静かに微笑み、俺とアビーを見守る目には、温かさと誇りが混じっている。
アビーはまだ少し震えながらも、周囲の圧倒的な安心感に支えられて小さく微笑む。その表情を見て、俺はさらに胸が熱くなる。
こうして、魔物との戦いの後、両親の心配と安心感、そして家族の力が交錯する森の中での一幕が幕を閉じる。
馬車は再び進み始め、森の奥深くに潜む未知の冒険に向かって、俺たちは揺られながら進むのだった。