第74話 アビーさんちへ二度目の訪問
バーグマンのヴェクスター領へ向かう馬車の中で、ヴェゼルは心なしか落ち着かない。
今回はフリードの命を受け、アビーの様子を見に行くことになった。婚約者とはいえ、子ども同士でそう何度も会えるわけでもない。
もっとも、今回は一人旅ではなかった。側には頼もしい二人の護衛がいた。寡黙な戦士グロムと、人懐っこいトレノである。
さらに──ヴェゼルの上着のポケットの中では、小さなサクラが隠れていた。彼女は「私も行く」と駄々をこね、仕方なくフリードが同意したのである。
馬車の車輪が小石を弾きながら、秋風に包まれた街道を進んでいた。車内にはヴェゼル、グロム、トレノの三人が腰掛け、そして――ヴェゼルの胸ポケットから、小さな白い顔がひょっこりと飛び出していた。
「ねぇヴェゼル。ポケットに入ってるだけじゃ暇! ずーっと同じ景色で退屈!」
サクラが頬をふくらませ、ぷいっと顔を背けた。
ヴェゼルは片眉をあげて、手に提げていた斜め掛けのカバンをごそごそと探る。そして取り出したのは、木で作られた小さな箱だった。
「じゃあ、この箱に入っていれば? ほら、ほぼサクラ専用の個室みたいなものだよ」
「……」
サクラは箱をちらっと見て、すぐにぷいっと顔をそむける。
「箱の中なんてやだ。せまいし、味気ないし……それに、ヴェゼルの匂いも体温も感じないじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、車内の空気がぴたりと止まった。グロムとトレノが同時に口元を押さえて、笑いをこらえている。
「おいサクラ……今、わりと大胆なこと言ったな」
トレノが小声で呟き、肩を震わせる。
「ほう……ヴェゼルの匂いと体温が好きとは。これは将来有望だな」
グロムがからかうようにぼそっと呟き、わざとらしく腕を組んだ。
ヴェゼルは完全に無表情。
「……はいはい。じゃあポケットで我慢しといて」
「しょ、しょうがないわねっ!」
サクラは頬を赤らめてポケットに引っ込んだが、その後もしばらくブツブツと小声で文句を言い続けていた。
馬車の外では、秋の実りを運ぶ農夫たちが行き交い、背後の村では収穫を祝う笑い声が遠くに聞こえてきた。黄金色の稲穂はすでに刈り取られ、天日干しにされた稲が整然と並び、甘い稲の香りが風に乗って車内まで届く。
「今年はヴェクスター領も豊作だな」
グロムが窓の外を見やり、ふと呟いた。
「道すがら見る藁積みの山、すごいね」
「ほんとだ。しかも村人たちの顔も明るいね」
トレノも感心したように頷く。
ヴェゼルは窓の外を眺めながら、心の中で思う。
――でも、この平和がいつまで続くかはわからない。塩の一件、盗賊の騒ぎ……黒幕らしき影もちらついている。
それでも今は、アビーに会うことを考えるだけで胸が温かくなる。
やがて馬車は大きな城館へとたどり着いた。石造りの門をくぐると、庭園には花が咲き誇り、赤や黄色の葉が舞い散っていた。
「おお、よく来たな!」
豪快な笑い声とともに現れたのは、アビーの父・バーグマン男爵。大柄な体に似合わず繊細な髭を整え、腕を広げて迎え入れた。
「ヴェゼル殿、いや、婿殿か?遠路ご苦労であった! そしてグロム殿にトレノ殿、ようこそ我が館へ!」
続いて、気品あふれるテンプター夫人が優雅に一礼する。
「久々にお会いできて嬉しいわ。アビーからはヴェゼルさんのこといつも伺っていますわ」
そして――。
「ヴェゼルっ!」
庭の奥から駆けてきたのはアビー。両手を広げて満面の笑みで迎えに来た。
「アビー!」
ヴェゼルも思わず笑みを返し、二人は自然に並んで歩き出す。その横には、侍女に抱かれたこどもががきょろきょろと首を振っていた。
「こちらがオースチンよ」テンプター夫人が微笑む。
オースチンはヴェゼルを見ると、まるで獲物を見つけた猫のように興味津々で手を伸ばしてきた。
「……なにか気に入られたみたいだな」グロムが目を細める。
「ヴェゼルのポケットからいい匂いがするのかも」
トレノが冗談を言うと、サクラがポケットの中から「ばか!」と小声で返してきた。
その時、背後から声が響いた。
「あなたが……ヴェゼルくんですか」
「はい。初めまして」
「ええ、噂はかねがね。……その歳で授かったのは、あまり実用的ではない魔法だったとか」
柔らかな笑みを浮かべながらも、言葉は容赦がなかった。まるで「かわいそうな子供」と断じているように。ヴェゼルは反論せず、ただ礼を尽くして頭を下げた。
現れたのは、燃えるような赤毛を背中まで垂らした女性。年は二十三ほど、引き締まった体つきに深紅のローブをまとい、その眼差しは鋭い。
「こちらは魔法省第五席のヴァリエッタ様です。火・風・土の魔法を高位で操られる方」
バーグマンが紹介する。
「ヴァリーで結構です」
ヴァリーは軽く手を振ると、ヴェゼルを一瞥し、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「なるほど……顔はかわいらしいが、中身はどうかしら」
グロムとトレノが同時に顔をしかめる。だがヴェゼルは涼しい顔を崩さなかった。
ポケットの中でサクラが「なによこの女!」と小声でぷんすかしているのを、必死に無視する。
アビーだけが心配そうにヴェゼルを見上げ、手をぎゅっと握った。
「ま、今さぁ、今日はまずは夕食を楽しむとしよう」
バーグマンの豪快な声が、場の空気を和ませた。
その日の夕食は、バーグマン家の豪勢なもてなしだった。
だが、ヴァリーは終始アビーに話しかけ、魔法の訓練の話題に終始していた。ヴェゼルは会話に入る隙をあまり与えられず、グロムとトレノも場を和ませようと努めていたが、なんとなく気まずい空気が流れた。
夜、与えられた客間で一人になったとき、ようやくポケットの中からサクラが這い出してきた。
「なによ、あの女。上から目線でさ。あーもう、腹立つ!」
「落ち着けよ。確かにちょっと嫌な感じだったけど、あれでもアビーの先生なんだ。正面から敵に回すわけにはいかない」
「ふん、あたしは絶対信用しないけどね」
そう言ってサクラは布団の端に座り込む。ヴェゼルは苦笑しつつ、明日を思って目を閉じた。




