第68話 オースター司祭の巡礼
覚えてますか? ヴェゼルの鑑定をしてくれたオースター司祭です。
オースターは己の歩みを振り返るたびに、胸の奥底を鋭い爪で掻きむしられるような思いを抱かずにはいられなかった。
――あの日。
まだ彼が司祭として志も高く、希望を胸に抱いていた頃。神に選ばれし者として初めて任された「鑑定の儀」。
人の子に宿る才を明らかにし、その未来を導く神聖な務め。彼はそれを果たす栄誉を授けられた。
だが、その場に立った少年――ヴェゼル・パロ・ビックの頭上に現れた神の啓示は、あまりにも鮮烈で、そして異質だった。
「収納スキル(りんご一個分)」
「スキル」初めて聞く言葉。啓示。
短く、しかし圧倒的な響きだった。オースターの心臓は鷲掴みにされ、冷たい汗が背を流れ落ちた。
その後に頭に現れた2文字。境界――それは神学においても未だに明瞭な答えを持たぬ言葉。生と死の境、光と闇の境、神と人の境。
すなわち、世界の根幹に触れる場所。人の子に与えられる未来の言葉としては、あまりに重く、あまりに恐ろしく、あまりに異常だった。
オースターは恐れた。もし自分がこの啓示をそのまま告げればどうなるか。
少年も、家族も、領地も、いや、この社会全体が動揺し、混乱を招くのではないか。いや、もっと単純に、自分が「狂った司祭」として断罪されるのではないか。
彼は震え、迷い、そして――声を濁した。
「収納 魔法 …… りんご 一個分」
そう言ってしまった瞬間、神の啓示は歪められ、覆い隠され、未来は捻じ曲げられた。
オースターは悟った。己は神に背いた、と。
鑑定の儀を終えた後も、その罪悪感は日を追うごとに重みを増していった。司祭としての務めを果たしていながら、彼の胸中には常に黒い影が渦巻いていた。
やがて、上司であったキャブライト・ローレル司祭が頭角を現した。聡明で清廉、上に立つべくして立つ人物。彼は教会の階梯を着実に登り、やがて司教に至るであろうと噂された。オースターもかつては同じ道を歩むはずだった。
だが、もう自分にはその道を進む気力が残されてはいなかった。
「なぜおまえは、彼のもとを離れるのだ」
周囲は訝しんだ。だが真実を語れるはずもない。
――自分は神の声に背いた。
ただ、その一点が心を苛み続けていた。
やがて彼は、エリートの道から外れた。浮浪するように各地を巡礼し、布教を名目に街から街へと歩いた。
それは敗北であった。同時に、わずかな赦しでもあった。人の運命を左右する鑑定から身を引き、ただ神の教えを説き歩くのなら、罪悪感を少しは紛らわせることができるかもしれない――そう信じた。
だが現実は残酷だった。
各地の街は、一見すれば華やかに繁栄していた。市場には人があふれ、教会には祈りの声が響く。だが、一歩裏通りに足を踏み入れれば、そこには孤児や浮浪者が群れをなし、冷たい石畳に身を横たえていた。
子供たちの目は光を失い、老人の手は震え、女たちは声もなく乞うていた。
オースターは施しをした。だが、それは海に石を投じるようなものだった。数え切れぬほどの貧者を前にすれば、自分の行いはあまりに些細で、無力で、意味をなさなかった。
「私は……何をしているのだろうか」
答えは出ない。どれほど祈っても、どれほど布教しても、現実は変わらなかった。
そのうちに、彼の身なりは旅の塵にまみれ、粗末な外套は破れ、髪は乱れ、髭は伸びた。もはや彼が司祭なのか浮浪者なのか、誰の目にも判別がつかないほどになっていた。
各地の教会を訪れれば、清めの水も浴びられたし、新しい衣を与えられることも可能だし、巡礼のための施しを受けることもできた。だが、オースターは次第にそれを拒むようになった。
――この身を整えて何になる。何も変えられぬ私が、清潔に着飾ることに何の意味があるのか。
彼の胸中には、ただひたすらに「神の啓示」と「贖罪」が重く沈殿し、日々を覆っていた。
ある時、小さな祭壇で祈っていたときだった。
『やがて現れるであろう。魔法とスキルを詳らかにする者が。この世界の真理に触れ、その境界を示す者が。』
確かに聞こえた。神の声だった。
オースターの背筋を震えが走った。かつてヴェゼルの鑑定で感じた「境界」の意味。今また神は「境界」を示した。
――あの少年の未来を、私は歪めてしまった。
その罪は決して消えない。だが、もし「境界を示す者」が現れるのなら、それを見届け、導くことが、せめてもの贖いとなるのではないか。
それが彼に与えられた新たな使命のように思えた。
しかし、同時にオースターの胸には別の迷いも渦巻いていた。
アトミカ教の布教。彼は巡礼司祭として各地でそれを行う役割を負っていた。だが、現実の貧富の格差を目にするたびに、信仰への確信は揺らいだ。
――この教えで、何が変わるのか?
――祈りは人を救えるのか?
彼には分からなかった。祈りは時に慰めを与える。だが、飢えた子の腹を満たすことはなく、寒さに凍える体を温めることもなかった。
それでも、巡礼をやめることはできなかった。やめてしまえば、神の啓示から完全に背くことになる。
ある日、野宿の焚火の前でオースターは深く考えた。
――明日は、どこへ向かうべきか。
答えは、心の底から浮かび上がってきた。
――ビック領。
かつて自らが鑑定を行い、未来を歪めた少年。ヴェゼル・パロ・ビックが生きる領地。
あの日から逃げ続けてきた自分の罪。だが、もう逃げるわけにはいかない。神の啓示を濁した己の口。あの言葉を覆すことはできなくとも、せめて彼の歩みを見届けねばならない。
「境界を示す者」。
その言葉が本当に彼を指すのか、それとも別の存在なのか。確かめるためにも、オースターは足を向ける決意をした。
彼の外套はぼろぼろで、靴底はすり減り、杖も古びていた。だが、その歩みは重く確かだった。
ビック領――そこにこそ、贖罪と啓示の答えが待っているような気がして。




