第07話 鑑定の儀を受けに辺境伯の城へ-1
祭りが終わり、アビーも帰った、あれから10日後、辺境の村ホーネットを出発したのは、まだ朝霧が土手に漂う時間だった。
藁の屋根を越えて差し込む光が、村の小道をオレンジ色に染める中、俺――ヴェゼル・パロ・ビック――は馬車に揺られながら、少し緊張した面持ちで座っていた。
父フリードはいつもどおり、剣を馬車の脇に立て掛け、座席で腕を組んでいる。母オデッセイは乗り込むなり、荷物の整理と旅の安全祈願を兼ねて、馬車内の掃除と確認作業を始めた。
「ヴェゼル、ちゃんと手綱握れてる?」
母はにこやかに俺を見下ろす。
5歳の子供に馬車の手綱を握らせるなんて、流石に脳筋親父だ。略して脳父(のうふ・のうちち!!)と心の中で罵声を浴びせつつも、返事は、
「え、あ、はい……たぶん」
俺は必死に営業スマイルを発動して手綱を握るが、馬の鼻息に押されてふらふらと揺れる。父がふと笑いながら、隣で小さくアドバイスする。
「焦るな、ヴェゼル。馬は剣より扱いやすいぞ……たぶんな」
その“たぶんな”が、父らしくて少し安心する。だが、心の奥では、「こんな冒険についていけるのか」と不安が渦巻く。
今回の最終目的地は辺境伯の館。
年に1回の総会で寄子の貴族が一堂に会するのだ。その時に5歳の子息は鑑定の儀を受けることになる。
そのため、馬車で片道約10日間の旅になる。
妹のアクティは長旅に耐えられないだろうからと、かわいそうだがお留守番。グロムやカムリと侍女のセリカがいるから大丈夫だろう。
途中で休息を兼ね、隣領のアビー――正式にはアヴェニスの領地にも立ち寄る予定だった。俺は無意識に先日のことを思い出し、少し照れくさくなる。
「今日はまずアビーの領地よ。お祭り以来だから、ヴェゼルは準備しておきなさいね」
母の声に、俺は肩をすくめる。いやいや、準備も何も、今まで村から一歩も出たことないのに、いきなり他領地だなんて! でも、母の眼光は鋭く、逃げ場はない。
「お、ようやく隣領か」
父の呟き。
馬車は霧の中を進む。
アビーの領境に入ると、田園風景が広がり、牛や羊がのんびり草を食んでいる。
俺は窓から外を眺め、深呼吸してみた。草の香り、土の匂い、馬の汗と鞍の匂いが入り混じり、異世界の旅気分を盛り上げる。見るからに良い運営をしているのだと思わせる。
父が指さす方向に、小さくそして無骨な城塞のような建物が見えた。
屋根は赤く、城壁には旗がはためいている。その城門の上には、見慣れた顔――バーグマン・フォン・ヴェクスターの大柄な姿が。
アビーの父であり、いつもの豪快な笑顔で手を振っている。
「ヴェゼル殿! よく来たな!」
俺は慌てて帽子を押さえ、敬礼……というより、5歳の体で必死に手を振る。
アビーはすでに庭で何かを飛び跳ねて遊んでいるらしく、風に揺れる栗色の髪が夕日に光る。
「まずは今日はヴェクスター領でお泊まりよ」
母が宣言するや、馬車はゆっくり城門をくぐり、敷地内の小さな広場に停まる。
簡単な貴族的挨拶もそこそこにバーグマンが大声で言う。
「ヴェゼル殿、疲れたろう。まずは昼食を食べようか」
隣で母オデッセイが微笑む。その案内に従い、館内の広間へと進む。
中は木目が美しく、壁には隣領の家紋が描かれ、日差しが大きな窓から柔らかく差し込んでいた。
テーブルの上にはすでに皿が並び、香ばしいパンや焼き肉、色とりどりの野菜料理が置かれている。
「これは……テンプター様の手料理ですか?」
俺が領を出立する前に学んだ知識をフル動員して、恐る恐る聞くと、バーグマンが胸を張って説明する。
「そうだ、今回妻のテンプターは妊娠中のため同行できぬが、館内の者たちに指示して準備してもらった。まあ、手伝いはしているから、ある意味“本人監修”だな!」
俺はコクリとうなずく。妊娠中の母親が料理を監修するなんて、昔の地球でいうところの“完全家庭感”が漂う。見ているだけで安心する匂いと景色だ。
俺は座席につくと、アビーが隣に座る。彼女は手をそっと合わせ、お祈りをする。
俺にとっては、こういう小さな所作ですら、世界がほんの少し優しく感じられる瞬間だった。
「うん、ヴェゼル、パンを先に食べて。肉はあとからね」
アビーの指示に従って、俺は恐る恐るパンを口に運ぶ。すると、ふわっと温かく、香ばしい匂いが口内に広がり、自然と笑みがこぼれる。
母オデッセイとアビーの母テンプター(声だけだが、妊娠で参加はできない)が微笑む姿が、やさしく俺を包む。
昼食後、アビーは立ち上がると、俺の手を引っ張る。「さあ、館内と庭園を案内してあげる!」
「え、あ、えっと……はい、ついていきます」
手を握られると、俺は少し心臓が高鳴る。まさか転生してすぐに、こんなドキドキイベントが待っているとは思わなかった。
アビーはにこやかに笑い、屋敷の廊下を軽やかに歩く。壁に飾られた絵画や、磨き込まれた床の木目を眺めながら、俺は「おお、すごい……」と小声で感嘆する。
廊下を抜けると、中庭に出る。そこには手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水の水音が柔らかく響く。
花々は色鮮やかで、鳥の声が混ざり合い、まるで絵本の中に迷い込んだかのような風景だ。
「ヴェゼル、こっち!」
アビーは楽しそうに走り、俺の手を引っ張る。俺は必死に走るが、途中で躓いて転びそうになる。それをすぐにアビーが支えてくれる。
「大丈夫?」
「う、うん……ありがとう」
思わず照れ笑いがこぼれる。こんな感覚、前世では味わえなかった気がする。
アビーは手を引くのをやめず、館内の階段を登り、屋上に続く扉を開ける。「ここは眺めがいいのよ。見て!」
ベクスター城の屋上。
石造りの階段をアビーに手を引かれ、最後の段を踏みしめた瞬間、思わず息が止まった。
目の前に広がるのは、想像をはるかに超える大パノラマ。
広大な森がどこまでも続き、その奥には幾重にも重なる青黒い山々。山頂には残雪がわずかに光を反射している。
そして、眼下に広がる城下町の屋根。赤や茶色の瓦が夕日に染まり、まるで燃えるような色彩で輝いていた。
煙突から立ちのぼる白い煙も、黄金の光に溶け込んで、まるで絵画のように見える。
「う、うん……すごい……」
異世界に転生してまだ何日か。日々の出来事に振り回されてばかりで、景色をゆっくり眺める余裕なんてなかった。
こんな美しい光景を見られるなんて……俺は一瞬、前世の日本で見た夕焼けを思い出す。
都会のビル群の間に沈んでいく夕日。その隣で笑っていた妻の顔。胸が少しだけ痛む。
「ヴェゼル、どう? いい眺めでしょう」
隣でアビーが胸を張って言った。
俺の言葉に、アビーは得意げに胸を張る。
俺は手を握り返すことしかできず、心の中で少し混乱する。だが、それ以上に、今この瞬間、彼女といることが自然に感じられるのだ。
俺は小さく笑った。
「……あぁ、本当にすごい景色だよ。アビー」
その瞬間、彼女が嬉しそうに笑う。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
(……俺、やっぱりこの体で恋愛イベントしてるよなぁ……)
夕焼けの美しさと、アビーの無邪気な笑顔。
心がふわっと浮き立つのに、どうしてもそのギャップが俺をくすぐった。
屋上から降り、庭園の奥にある花畑へ向かう。
庭園に響く彼女の笑い声に、俺は思わず微笑む。胸が熱くなるのがわかる。
戸惑いながらも、心の奥で懐かしさと安心感を感じる。まるで、前世で見た光景の断片を再び体験しているかのようだ。
館の窓から見守る母達テンプターとオデッセイは、二人の様子を微笑ましく見つめる。
母たちにとって、これはただの幼馴染の遊びではなく、将来を感じさせる微笑ましい光景なのだろう。
俺は走り回るが、脳内ではオヤジの理性が「こんな幸せ、異世界補正じゃなければ成立しない」とツッコミを入れる。
アビーは庭園を駆け回り、俺を追い立てるように案内する。小さな滝の前、噴水の横、そして花壇の間をくぐり抜け、俺は必死についていく。
息が上がり、汗が額を伝う。だが、手を握ってくれるアビーの温もりが、それ以上に心を温めてくれる。
「ヴェゼル、もう疲れた?」
「いや……まだ平気……かな?」
言葉はぎこちないが、心の中で笑いが込み上げる。「俺、もう体力的には限界だけど、心はまだまだいける」と思う。
こうして、アビーの館内と庭園の散策は、昼食後から夕暮れにかけて続いた。
母たちが見守る中、俺と元気な姉気取りのアビーは、まるで時間の流れを忘れたかのように、自由に駆け回った。
庭園の小道を曲がるたびに、アビーは俺の手を引き、石畳の上でくるりと回る。
照れくさくて、まともに顔を上げられない。心の奥では自分が「いや、これはもう完全に恋愛イベントだ……!」と慌てている。
しかし外見は5歳。微妙にコミカルで、周囲の母たちから見ればほんのり微笑ましい光景にしか見えないだろう。
アビーはそのまま俺の手をぎゅっと握る。「ふふ、やっぱりヴェゼルは可愛いね」と言って笑う。
俺の頭の中では「可愛いって……俺、オヤジなんだぞ!?」とパニック状態。だが、体は自然と彼女の手に応え、握り返してしまう。
何とも言えない葛藤と幸福感が混じり合い、思わず足元でくすぐったい気持ちが沸き上がる。
二人で庭園の奥まで歩くと、小さな池のほとりにベンチがあった。そこに座るアビーの姿は、陽の光を浴びて輝いている。
アビーはくすっと笑い、「どうしたの、ヴェゼル、そんな座り方で」とからかう。俺は恥ずかしくて「い、いや、その……」と答えるのが精一杯だ。
そのまま沈黙が少し続く。庭園の水面には夕日の光が反射し、黄金色に輝いている。鳥の声と風のささやきが、時間の流れをゆったりと感じさせる。
夕暮れが深まり、庭園は黄金色から薄紫に変わり、風が優しく吹く。二人で肩を寄せ合いながら歩くと、アビーは時折手をつなぎ、俺は自然に手を握り返す。
言葉は少ないが、夕日と風、花の香りが二人の間の空気を柔らかく包み、静かな幸福感を演出する。まるで時間がゆっくり流れているかのようだ。
こうして、隣領の城での昼食と館内・庭園案内は、アビーと俺、そして両家の母が微笑み合う温かい時間となった。
夕暮れの光に包まれた二人の距離は、確かにまた少し縮まったのだった。