第623話 アヴァンタイムの呟き
夜は、完全に帝都を覆っていた。魔法省の奥、限られた者しか足を踏み入れない一角。
そのさらに奥にある一室だけが、未だ灯りを落としていない。
分厚い扉は外界の音を遮断し、窓には重いカーテンが引かれている。空気は閉ざされ、音は沈み、ただ静寂だけが満ちていた。
その中央で、アヴァンタイムは椅子に深く腰掛けている。
机の上には整然と書類が並ぶ。だが視線はそこにはない。ただ指先で机をゆっくりと叩いていた。
規則正しい、微かな音。それだけが、この空間に流れる時間を示している。
やがて、その手が止まった。
「……劣化、か」低く押し殺した声が落ちる。
視線がわずかに下がり、机の一点を鋭く射抜く。先ほどまであった余裕は消え、代わりに冷えた苛立ちが浮かんでいた。
「よりにもよって、エリクサーを管理する立場の者が、その性質すら理解していないとはな」
吐き捨てるように言う。
「愚かにも程がある……フィリーか」その名を口にした瞬間、空気がわずかに軋んだ。
本来であれば、あの一手で決着していた。
本物のエリクサーを置いておけば、それだけで価値は保証される。発見された時点で、疑いは収束し、思考は止まる。
誰もが同じ答えに辿り着く――そういう形で終わるはずだった。
だが、現実は違った。
「……あの小娘一人の浅慮で、余計な揺らぎが生まれたのだからな」
指先が、乾いた音を立てて机を叩く。
そして、セブリングの顔が脳裏をよぎる。
「目をかけてやったというのに……最後に余計な小細工をしてくれたものだ」
低く、忌々しげに吐き出す。
手は打っていた。組織を使い、家族を押さえ、選択肢を潰し、動かした。二本のエリクサーを持ち出させるところまでは、すべて計算通りだった。
だが、その先で歪んだ。
「劣化したものを混ぜるとはな……」短く息を吐く。
誘拐犯どもに真偽を見抜く力などない。だからこそ成立する計画だった。だが、その前提を逆手に取られた。
ブガッティの屋敷に置かれた一本。それが“完全ではない”という事実。
それが、すべてを狂わせた。
「価値があるという前提があってこそ、意味を持つというのに……それを崩してどうするのだ」
声は低いままだが、奥に滲む苛立ちは隠しきれない。
「あれで当初の計画は崩れた」
はっきりと断じる。
本来ならば、あの場で流れは固定されていた。だが不完全な証拠は、余計な余地を生む。検証を呼び、疑念を呼び、思考を許す。
――そして、踏み込ませる。
「……あの小僧に、な」
ヴェゼルの顔を思い浮かべ、わずかに目を細める。
賢いとは聞いていた。だが、あそこまで見破るとは想定外だった。
しばし、沈黙が落ちる。
やがて、アヴァンタイムはゆっくりと息を吐いた。肩の力がわずかに抜ける。
「……まあいい」
ぽつりと落とす。
怒りは消えていない。だが、それとは別に、別の感情が静かに浮かび上がっていた。
机の下の保管庫に手をかける。鍵を外し、静かに開く。中から小さな箱を取り出した。
蓋を開ける。
淡い光を帯びた液体。豪奢な硝子瓶。その内部で、揺らぎながらも確かに存在しているもの。
エリクサー。
その光を見下ろしながら、口元がゆっくりと歪む。
「……結果としては、悪くない」
先ほどまでの苛立ちとは違う、冷えた愉悦が滲む。
「計画は歪んだ。だが、破綻したわけではない」
指先で瓶をわずかに傾ける。液体が静かに揺れ、光が歪む。
「何より――一本は確実にこちらにある」
その事実だけで十分だった。
表の構図が多少乱れようと、本来の目的の一端は達している。ならば、帳尻はいくらでも合わせられる。
「そうだ……十分だ」
小さく笑う。
「フィリーは……いずれ処理すればいい。余計なことをした代償は払ってもらう」
感情のない声で呟く。決定事項のように。それ以上の関心は向けない。
再び視線は瓶へ戻る。
「ヴェゼル……確かに賢い」
ぽつりと漏れる。昼間の光景が、静かに蘇る。
論理。観察。結論。その一つ一つが正確だった。
だが――「だが、それだけだ。理屈に従う者は、理屈に縛られる」
口元がわずかに吊り上がる。
指先で軽く瓶を叩く。静かな断定。
「私は違う。必要ならば、前提すら作り替えられるのだからな」
ゆっくりと蓋を閉じる。箱を戻し、鍵をかける音が小さく響いた。
再び椅子に身を預ける。
「……私の方が賢いのだよ」
その声には、確かな確信と、わずかな愉悦が混じっていた。
静寂が戻る。何も変わらない。何も崩れていない。
少なくとも、この男の中では。
そしてその奥で、かすかな笑いが静かに滲んだ。
「しょせんは多少賢くとも子供だ。私のもとにエリクサーがあるなど、思いもよるまい」
低く言い捨てる。
箱を閉じ、エリクサーを元の場所へと戻す。鍵をかける音が、やけに静かに響いた。
そのまま椅子に深く身を預ける。
「宰相は、この一連の騒動を否定するだろうな。関わっていないのだから当然だ」
淡々とした声だった。
「だが――それで流れが止まることはない」
口元が、ゆっくりと歪む。
「証拠と状況が揃えば、人は真実を見ない。最も納得できる結論を選ぶ」
昼間に聞いた言葉を、そのままなぞるように呟く。
その意味を、誰よりも理解しているのは自分だと言わんばかりに。
アヴァンタイムは静かに笑った。
「厄介な男だ、ヴェゼル。確かに賢い。構造も流れも、よく見えている」
だが、と心の中で続ける。
「それでも――私の方が上だ」
揺るぎのない確信が、そのまま声に滲む。
「お前は正しいがゆえに、外れない。だからこそ、“外された前提”には辿り着けない」
指を組み、ゆっくりと目を閉じる。
「見えている範囲で最も合理的な答えを選ぶ……美しいが、完全ではない」
わずかに肩を揺らす。
「そして私は、その外にいる」
その言葉には、はっきりとした愉悦が宿っていた。
やがて立ち上がり、窓へと歩み寄る。カーテンをわずかに開けば、夜の帝都が広がる。
無数の灯り。無数の人間。すべてが動き続けている。
だが――そのどれ一つとして、全体を見ている者はいない。
「さて……次はどう動くか」
小さく呟く。
盤面はすでに整っている。ヴェゼルは宰相へ向かい、宰相は応じざるを得ない。その衝突は、避けられない。
「……あとは火が大きくなるのを待つだけだ」
静かに言う。
「その間に――こちらは積み上げる」
カーテンを閉じる。光が断たれ、室内は再び閉ざされた空間へと戻った。
音はない。気配もない。
ただ一人の男だけが、そこにいる。
その胸にあるのは、確信と、計算された愉悦。ぽつりと零れる。
「……愚かだな。誰一人として、気づいていない」
わずかに目を細める。
「自分が、どこに立たされているのかを」
静寂。
その奥で――かすかな笑いが滲んだ。
音もなく、気配もなく。
ただ確かにそこにある。
計画が歪もうとも、なお盤上を支配していると信じて疑わない者の、冷たい悦びが。




