第65話 錬金塔 長官への報告 影の詳報
すいません。どうしても気になりまして、第60〜65話を2025年9月18日6:00〜7:00の間に、話を大規模に入れ替えました。
数週間後。
夜半、塔の執務室に影の者が再び現れた。黒衣に身を包み、顔は深く覆われている。
「ご報告いたします」
「……聞こう」
影は淡々と告げた。
「ビック領は目下、好景気にございます。特に、教育玩具の生産と販売が皇都で大流行。皇妃陛下をはじめ高位貴族がこぞって購入しております。すでに模倣品が市井に出回り始めておりますが、本家本元の品は即日完売とのこと」
イグニスは眉を寄せた。
「……玩具で好景気、か」
影は続ける。
「それだけではございません。燻製肉の製造、甘味の安定供給、酒の新たな製法。さらに領内では、ひえ・あわ・そば・大豆などが通常の二倍以上の収穫量を記録。今年は余剰分を周辺領へ売り出すと見られます」
イグニスの心臓が嫌な鼓動を打つ。
辺境の最底辺の騎士爵家が、余剰を売るほどの収穫を上げる――それは、他の貴族にとっても看過できぬ事態だ。
「そして……」影の声が一段と低くなる。
「妖精に関してですが、民の証言が一すべて致しております。嫡男の肩や周囲にはいつも光のようなものが飛んでいると……あの妖精の噂はほぼ事実かと……」
特に嫡男ヴェゼル・パロ・ビックは、領主の代理として政務に参画し、次々と成果を上げている様子。領民からは『神童』『妖精に祝福されし者』と呼ばれ始めております」
「……っ。すべて報告は事実であったか」
イグニスは息を詰めた。
妖精――百年以上、帝国との関わりを絶ってきた存在。その加護を得たとなれば、もはや一つの宗教的・政治的象徴になりかねない。
イグニスは長い沈黙に沈んだ。
それはただの幻想かもしれない。だが、幻想であっても人心を掴むには十分だった。
翌日。
イグニスは帝都の重臣たちとの会合に臨んだ。表向きは学術会議。しかしその裏では、帝国の知と権力を握る者たちが情報を交換し、牽制し合う場でもある。
「イグニス殿。例のビック領の件、聞き及んでおりますぞ」
まず声を上げたのは財務卿の大臣だった。
その目は半ば嘲笑を含んでいる。
「玩具や燻製肉で小金を稼ぎ、妖精の加護だと囃し立てる。辺境の成り上がり、滑稽ではありませんか」
しかし、別の声がそれにかぶせた。
「いや、笑い事ではあるまい。皇妃陛下が玩具を殊のほか気に入っておられるとか。皇族が庇護を与えれば、辺境の一騎士爵といえど侮れん」
「しかも穀物の収穫。帝都でさえ飢えに喘ぐ年があるというのに、二倍とは尋常ではない。……あの領地に何が起きているのか、解明すべきだ」
ざわめく会場。
イグニスは表情を崩さず、ただ静かにそれを聞いていた。
(……やはり噂は広がりつつある)
そして、決定的な一言が投げかけられた。
「これは放置すれば、帝国の秩序に関わる。イグニス殿、錬金塔としての見解は?」
全員の視線がイグニスに注がれる。
「……貴様ら、何を言っているのだ。忘れたのか?」
老いた瞳が、一人ひとりを射抜くように見渡す。
「オデッセイが退職に追い込まれた、あの日を」
誰も口を開かない。ただ沈黙が広がっていく。
イグニスは続けた。
「アトミカ教や高位貴族の突き上げに怯え、我らは屈した。若き才女を、塔から追い出した。誰一人として庇わなかった! ――その場にいた、この私も含めて、な!」
その言葉は、石のように重く落ちた。
幹部たちの顔が次々と歪む。羞恥、悔恨、言い訳すら浮かばぬ沈黙。
「今さら“なぜあの女が”などと問う資格があるか!」
イグニスの声は怒りに震えていた。
「この状況を作り出したのは、我ら自身だ! 彼女を恐れ、彼女を理解しようとせず、ただ追い出した――その責を、我ら全員が負っているのだ!」
会議室に重苦しい沈黙が落ちた。
誰も視線を上げられず、ただ己の手を握りしめる。
イグニスは大きく息を吐いた。
老いた肩が落ちる。
「……私は長い時を生きてきた。だが、これほどまでに己を恥じたことはない。あの娘を見誤ったことは、塔の、この帝国の最大の過ちだ」
言葉の重みが、ひとりひとりの胸に突き刺さる。
今、この場にいる全員が、自分もまたその責任を負っていると悟った。
「忘れるな。我らが直面しているのは外敵ではない。己の愚かさの報いだ。逃げることは許さん」
イグニスの静かな叱責に、誰も反論できなかった。
ただ、沈黙のうちに、それぞれの胸に重石のような後悔が沈んでいった。
イグニスがそれほどの危機感を示したこと自体が、この件の重大さを物語っていたからだ。
会議が終わり、一人きりになった廊下を歩きながら、イグニスは老いた身に鞭打つように思考を巡らせた。
その夜。
「……影を増員しろ」
低く絞り出した声に、部屋の空気が震えた。
音もなく、壁の暗がりから黒装束の男が一歩進み出る。
帝国直属の諜報組織――ただ「影」と呼ばれる存在のひとりだ。
「承りました」深く頭を垂れる影。
しかし、その背筋にはかすかな緊張が走っていた。
それは、ただの任務以上の重圧がのしかかっている証拠だった。
イグニスはゆっくりと目を閉じ、思考を組み立て直す。
「忘れるな。相手はかつての我が同僚……いや、我が塔にとって最も恐れるべき存在だ」
「……恐れるべき、とは?」
影の低い問いに、老子爵は口元を歪めた。
「オデッセイ・ビック。あの女は、錬金の才覚を持ちながらも、決してその才を塔のためには用いなかった。むしろ、塔が忌避する真理に触れようとしていた……収納魔法と鑑定。二つを突き詰めれば、世界の構造そのものに肉薄する。だから、アトミカ教が恐れ、塔が追い落とした」
記憶の底に沈む光景が蘇る。
錬金塔の会議室で、若き日のオデッセイが毅然と立ち、己の理論を語っていた姿。
解毒薬を安価に量産できる手法を提示し、会議室中を騒然とさせたときの鮮烈さ。
その場にいた誰もが、「この娘は危うい」と直感した。
「だが……見誤ったのだ」イグニスの手が震えた。
「彼女は、ただの才媛ではなかった。望めば使えたであろう皇妃の後ろ盾すら求めず、ただ己の道を歩んだ……。退職に追い込んだのは、我々の小心ゆえだ。だが……それでも、あの娘がここまで力を伸ばすとは」
影は沈黙を守る。
長官の胸中が、ただの危惧ではなく畏怖に変わっていることを理解していたからだ。
「知育玩具、甘味、燻製肉、雑穀増産、そして毒芋の食用化……」
老子爵は机を叩いた。
「一見すると取るに足らぬ領主の家業に見えるが、そのどれもが人心を掌握するものだ。腹を満たし、子を楽しませ、その子に知を与え、戦時の糧を確保する。領政の基盤をひとつひとつ固める策――この老いぼれにも、はっきりと見える。これは偶然ではない」
イグニスの声に、影の瞳がわずかに細められる。
「……では、オデッセイは意図的に?」
「そうだ。彼女は“構築者”だ」
老子爵は吐き捨てるように言った。
「世界のほころびを見つけ、それを繕う術を知っている。塔で学んだ知識ではない。むしろ、塔が決して触れようとしなかった領域……“生活の真理”だ」
報告にある「息子」の名を思い出す。
ヴェゼル・パロ・ビック。
「鑑定の儀で不遇の魔法を授かりながら、今や神童と呼ばれる少年……」
イグニスは冷や汗を拭った。
「妖精の加護がある? 笑止千万。だが、そう言わずにはいられぬほど、現象が異様なのだ」
長官の視線が鋭くなる。
「影よ。お前たちが見極めるのだ。オデッセイとその息子が本当にただの“地方の奇才”なのか、それとも――帝国の秩序を揺るがす“脅威”なのかを」
沈黙の中、影は再び深く頭を垂れた。
「御意」
そして、影は音もなく消え去る。
残されたイグニスは、蝋燭の炎をぼんやりと見つめた。
「……オデッセイ。お前が歩む道の果てに、何を見るのだ?」
問いかけは虚空に消え、返答はなかった。
ただ夜の帳が、静かに塔を包み込んでいった。
ヴェゼルがなんとなく思いつきで現世知識の中から使えそうなものをとりあえずやったことだったのに、
イグナス卿は超超超ーーー、深読みして危惧してますね。。
それだけ当時オデッセイが塔で鮮烈な印象だったんでしょうけども。。




