第621話 アプローズの解放
そして翌朝。朝食を終えたばかりの穏やかな時間は、正面玄関の方から響いてきた慌ただしい足音によって、あっさりと破られた。
次の瞬間、扉が勢いよく開き、トラビックが息を切らしながら駆け込んでくる。
「アプローズさんが戻ってきました!」
その一言で、場の空気が一変した。
ほどなくして、女性の従業員に伴われ、アプローズが部屋へと入ってくる。
フリードとヴェゼルの姿を見た瞬間――アプローズの表情が崩れた。安堵と感情が一気に溢れ出し、目に涙が浮かぶ。
ヴェゼルは一瞬、違和感を覚える。
やつれているかと思っていた。だが実際には、その逆だった。頬はむしろ艶やかで張りがあり、体つきもどこかふっくらとしているように見えた。
(……むしろ健康的なのでは?)
そんな疑問が浮かぶ間もなく、アプローズはそのまま駆け寄ってきた。
一瞬だけ逡巡し――次の瞬間、その勢いのままヴェゼルに抱きつく。
そして躊躇せずに、軽々と持ち上げた。
「……っ!?」
ヴェゼルの足が宙でぶらりと揺れる。抱きしめたまま、アプローズは声を上げて泣き始めた。
完全に“抱えられている側”である。
ヴェゼルはされるがまま、苦笑いを浮かべるしかない。
その様子を横で見ていたフリードが、ぽつりと呟いた。
「……俺じゃないんだな」
妙に納得したような、そして少し寂しそうな声だった。
やがてひとしきり泣き終えたあと、アプローズはようやく落ち着きを取り戻し、応接室の席へと移る。
フリードが腕を組み、率直に問う。
「で、この数日はどうだったんだ? 大丈夫だったか?」
アプローズは少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。
「えっと……たぶん、どこかの騎士団の方々に“同行をお願いされた”感じです」
曖昧な言い回しだったが、意味は伝わる。
「喫茶店を出るときは、ちょっと強引でしたけど……その後は、どこかの偉い方のお屋敷に連れていかれて」
「監禁、か」
「監禁というか……部屋からは出られませんでしたけど……」
だが、と続ける。
「専用の侍女さんと執事さんがついて、食事もすごく豪華で……お風呂も好きなときに入れて、そのあとも髪とか肌とか、爪までも手入れしてくれて……全身美容のサロンに数日いたような感じでしょうか……」
少し頬に手を当てる。
「……もしかしたら、僕、ちょっと太ったかもしれません」
真剣に心配している様子だった。
ヴェゼルとフリードは一瞬言葉を失う。
(……そっちかよ)
確かに、アプローズの肌も髪の艶も増しているし、頬も体も口頭では言えないが、明らかに肥えている感じがする。ヴェゼルズ・アイ(なんとなくの外見判断)を駆使して見てみても、数キロは肥えている印象だ。(鑑定は使ってない!)
「一流ホテルより快適でした……ああいうお姫様のような生活も良かったなって…あと数日は、あのままでも…」
遠い目で言う。
ヴェゼルは小さく息を吐いた。
丁重に扱われる可能性は考えていた。だが、ここまで徹底されているとは思っていなかった。
フリードも同じように、わずかに眉を上げる。
「……で、何か聞かれたか」
「はい。ブガッティ様のこととか、エリクサーのこととか……」
少しだけ表情が引き締まる。
「でも、そこまで深くは追求されませんでした」
その言葉に、ヴェゼルとフリードは小さく安堵する。
やはり目的は“情報”ではなかったのだと。
そこでアプローズは、ふと真顔になった。
「……もしかして、ああいう生活を体験させて、普通の生活に戻れなくするという……深淵なる策略だったのではないでしょうか?」
しばしの沈黙。
ヴェゼルとフリードは、何も言わなかった。
そのまま自然に流す。
アプローズはまだ何か考え込んでいたが、気にせずヴェゼルが口を開く。
「今回の件ですが――」
そして、ここまでの顛末を簡潔に説明した。
フィリーが資料を持ち出し、エリクサーに手を出して劣化させたこと。
それとは別に、外部からの介入があり、計画そのものが歪んでいたこと。
話を聞き終えたアプローズの表情が、わずかに曇る。
「……フィリーさんが」
小さく呟く。
完全な怒りではない。ただ、裏切られたような、残念そうな色だった。
そしてヴェゼルは、会話の流れを切らぬよう静かに続けた。
「ガヤルドさんは……口は悪いですけど、普通に紳士的に接してくれましたよ」
軽く事実だけを言った。だけだったのだが。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、アプローズの表情がわずかに引きつる。次の瞬間には、露骨な疑いの色を帯びた視線がヴェゼルへ向けられていた。
「『あの』ガヤルドさんですよね?」
間髪入れずに言葉が続く。
「いつも魔法省の若手の女性達と話していたんです。あの、執拗で偏見に満ちてて、皮肉ばっかりで、お金にも細かくて、割り勘の時も細かいし、視線もなんか気持ち悪いし、どこかに行ってもお土産なんて一度も買ってきたことがないし、なんとなく臭そうだし、それにいつも被ってるあの帽子も変で……」
一切の躊躇がない。
言葉は止まらず、次々と積み上がっていく。内容も遠慮も容赦もない、見事なまでの全人格否定だった。
ヴェゼルはその勢いに、思わず苦笑を浮かべる。
(……あの人、魔法省でどれだけ嫌われているんだよ……)
内心でそう呟きながらも、表には出さない。
確かにガヤルドは皮肉屋ではあったが、話の筋は通っていたし、少なくとも今回に限って言えば、対応は終始まともだった。それでもここまで言われるのかと、逆に感心すら覚える。
そして同時に、ひとつの現実も見えてくる。
魔法省という組織の中で、ガヤルドがどの位置にいる人間なのか。
人望という意味では、決して恵まれていないのだろう。
――あの魔法省宮内長になれなかったのも、ここまで人望がなさそうだと、当然の人選だったのでは…とすら思う。
そこまで思考は巡る。
だが、それを言葉にすることはない。
必要のない真実は、ただ場を乱すだけだ。
ヴェゼルは何も言わず、ただ静かにそのやり取りを受け止める。
その間も、アプローズのガヤルド評は止まる気配を見せなかった。
言葉は軽く、空気はどこか緩む。
ほんの少し前まで張り詰めていた緊張が、ゆるやかにほどけていくのが分かる。
ともあれ――
アプローズは無事に戻ってきた。
それだけで、この一件はひとまず区切りを迎えたと言っていい。
少なくとも、ヴェゼルたちにとっては。
これでとりあえず。。
アプローズ救出?のシーンでした。
ガヤルドさん、嫌いではないんです。。
謎解き的な話、、需要はあるのかなぁ。。




