第619話 アプローズの失踪14
その事実を誰もが突きつけられ、沈黙が完全に落ちきったあと、しばらくの間、誰も動こうとはしなかった。
思考だけが静かに巡り、まだ言葉にするには早い何かが、互いの沈黙の中で共有されていく。
ヴェゼルはその重苦しい空気を、壊そうとはしなかった。
ただ一度だけ呼吸を整え、わずかに視線を落としたまま、次の段へと進む。
「――そして三つ目。アプローズさんの件です」
低く、静かな声。
フリードがわずかに顔を上げる。
だが口は挟まない。ここまで来れば、それが単独の事件ではないことは明らかだった。
「先ほども言いましたが、彼女は、最初から“導線”として扱われていた可能性が高いです」
簡潔な言葉。だが重い。
ガヤルドが低く問う。
「……誘拐ではないのか」
「最終的には誘拐とは言えなくなると思いますが、形式上はそう見えますね」
ヴェゼルは否定も肯定もしない。
「ですが実態は違います。目的は彼女そのものではない。あくまで“エリクサーの件へ誘導するための起点”です」
わずかに間を置く。
「アプローズさんが消えれば、周囲は必ず動く。“エリクサー絡みではないか”と考える」
フリードが小さく頷く。
「……確かに、そうなるな」
「ええ。そしてその流れで、ブガッティさんの屋敷が調べられる」
短く、構造を示す。
「――そこに、用意されたエリクサーがある」
空気がわずかに張る。
「つまり彼女は、“事件を成立させるための起点”だったんだと思います」
ヴェゼルは続ける。
「加えて、元弟子という立場もある。エリクサー研究の中心にいたのはブガッティさんですから、アプローズさんから情報を引き出す意図もあったでしょう。ですが、それはあくまで副次的なものです」
ガヤルドが低く呟く。
「……導線、…道具としてか」
即答だった。
「はい。その前提で見ると、今の状況ははっきりしています」
視線をわずかに落とす。
「エリクサーが三本存在することが確認された。さらに、ブガッティさんのものは帝国のものとは別系統の可能性が高い」
静かに言葉を重ねる。
「つまり、“盗まれたエリクサー”と“屋敷に置かれたエリクサー”を同一視する前提が崩れたんです」
フリードが息を吐く。
「……土台が消えた、ということか」
ヴェゼルは頷く。
「ええ。前提が崩れた以上、この誘導は成立しません。ブガッティさんに罪を押し付ける構造も、同時に破綻しています」
わずかに間を置く。
「となれば――アプローズさんを拘束し続ける理由も消えた」
静かな断定だった。
ガヤルドが低く問う。
「……どう動くと思う」
ヴェゼルはすぐには答えない。
少し間を置き、事実を積み上げる。
「現場は今、判断に困って動揺してるんじゃないでしょうかね。引き渡す理由も、抱え続ける理由も、どちらも曖昧になっていますから」
廊下を風が抜ける。
その音だけが、言葉の隙間を埋めた。
「そして、曖昧なまま抱え続けるのが一番危険です。だから――いずれ解放されます」
断定ではない。だが、それは“そうなるしかない構造”から導かれた帰結だった。
フリードが低く呟く。
「……不要になった、ってことか」
ヴェゼルは頷く。
「そうです。口封じで殺せば、逆に問題が大きくなる。そもそも、帝国の正規の組織でしょうからね。早々殺人などするはずはありません。ならば、事情聴取だったとでも言って解放する方が合理的です」
その言葉に、場の温度がわずかに下がる。
やがてヴェゼルは、ほんの少しだけ声を落とした。
ここから先は、事実ではなく“違和感”の話になる。
「そして――この一連の動きの違和感は、そこにあります」
静かに続ける。
「計画そのものは精密です。侵入手段、配置、誘導……すべてが“成立する前提”で組まれている」
だが。
「最後の詰めだけが存在しない」
その一言が、重く残る。
「成立しなかった場合の処理がない。本来なら必ず用意されるはずの“次の一手”が欠けている」
視線がわずかに細まる。
「つまり――設計した者と、現場で動いた者は、同じ前提を共有していない」
誰も名を口にしない。だが思考はすでに同じ方向へ収束している。
――全体を設計できる位置にいながら、現場を完全には掌握していない者。
その歪みだけが、静かに輪郭を持つ。
ヴェゼルは最後に、わずかに息を吐いた。低い声で言う。
「……それでも、真犯人は、確実に一本エリクサーを手に入れています」
誰も動かない。
「本物を二本確保し、そのうち一本を偽装に使い、もう一本を確保する――本来の目的はそこですからね。計画は破綻した。ですが、“成果”までは失っていないんです」
その言葉だけが、静かに場に残る。
――巧妙に。
計画は崩れた。だが、奪うべきものはすでに奪われている。
だからこそ。
この件は、まだ終わっていない。




