第615話 アプローズの失踪10
やがて、ヴェゼルは踵を返す。ほんの一瞬だけ、背後へ視線を向けた。
壁際――動かぬ影のように立つアヴァンタイムが、無言のままこちらを見ている。
口では関わらないと言いながら、その視線はすべてを見ているように重かった。
「……次を見ましょう」短くそう言って歩き出す。
向かったのは寝室だった。扉を開けた瞬間、空気がまた少し違うことに気づく。
生活の跡がそのまま残っている。脱ぎかけの服が放置され、ゴミ箱からは紙くずが溢れていた。布団も整えられず、起きたままの形で崩れている。
人がここで普通に生活していたことが、そのまま残っていた。
食堂も同じだった。片付けられていない食器や、使いかけのものがそのまま残っている。
(……こんなものか)高齢で独身の研究者なら、特別おかしな光景でもないのかもしれない。ヴェゼルはそう受け止める。
そのまま、静かに部屋を見渡す。視線は自然と細部へ向かい、気になる点を拾っていく。
その時だった。
「こちらへ!」
兵士の声が、静まり返った空気を切り裂いた。
全員の視線が一斉に向き、足音が重なるように隣の部屋へと向かう。
その部屋は狭く、窓も小さい。差し込む光は弱く、空気も少し重い。長い間使われていなかったような、こもった感じがあった。
そして、その中央に――
堅牢そうな箱が、ぽつりと置かれていた。
兵士が一歩近づき、少し戸惑ったように口を開く。
「この中に……薬品のような瓶がいくつか入っていました。保管庫でしょう。……ここにエリクサーはあるのでしょうか」
無理もない問いだった。この場にいるほとんどの者にとって、それは話に聞くだけの存在だ。目の前にあったとしても、本物かどうかを見分けられる者はいない。
――ただ一人を除いて。
ヴェゼルはゆっくりと箱へ歩み寄る。足音を抑え、余計な動きは一切ない。
中には小さな硝子瓶がいくつか並んでいた。その中で一つだけ、明らかに装飾が違う。手に取らずとも分かるほど、作りが精巧だった。
中の液体は淡く光を帯びている。だが――色が少し濁っている。そして量も、満ちてはいない。
ヴェゼルはそのまま目を細めた。
「……妙ですね」
小さく呟く。
ガヤルドが横から覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「減っているな」
短く、苛立ちを隠さない声だった。
ヴェゼルが視線だけで問う。
「減っている、とは?」
「見れば分かるだろう。量が足りん。エリクサーはな、一度開ければすぐに数日で劣化する。だから普通は封を切らず、満たされた状態で保管するものだ」
吐き捨てるように言う。
「こんな中途半端な状態で残っている時点でおかしい。関わっている人間なら、それくらい知っていて当然だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに止まる。
フィリーの肩が、びくりと揺れた。
「そ、そんな……」
かすれた声が漏れる。
「劣化……嘘よ……」
ほとんど消え入りそうな声だったが、ヴェゼルにははっきりと届いていた。
ほんの一瞬だけ、視線を横に流す。フィリーは俯いたまま、顔色を失っていた。
だがヴェゼルは何も言わない。何事もなかったかのように意識を瓶へと戻す。
「……少し確認します」静かにそう告げると、手を伸ばす。
「丁重に扱え」すぐにガヤルドの声が飛ぶ。短く、だが無視できない重さがあった。
ヴェゼルは小さく頷き、その硝子瓶を慎重に手に取る。
わずかに重みがある。見た目以上に、しっかりとした造りだ。
そして――誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟く。
「……鑑定」
その瞬間、ごくわずかに――本当に意識しなければ気づかない程度の魔力が、ヴェゼルの周囲に広がった。
一瞬だけ空気が、ほんのわずかに揺れる。
そして――
壁際に立つアヴァンタイムの指が、かすかに動いた。
それだけだったが、確かな反応だった。
(劣化した液体:成分構成はエリクサー由来。活性反応なし。効力消失。現状は無機的な薬液)
淡々とした情報が、思考の中に流れ込む。感情も評価もない、ただの事実の羅列。
ヴェゼルは何事もなかったかのように口を開いた。
「……濁っていますね」静かな声。
フリードが低く問う。「これがエリクサーなのか?」
ヴェゼルは首を横に振る。
「元は、そうだったようです。ですが、もう劣化しています。今はただの液体ですね」
ガヤルドが舌打ちをする。
「ふざけた話だ。こんなことをするとはな……ブガッティ殿がやったとは思えんが」
その言葉にも、誰もすぐには応じない。
フィリーは立ち尽くしたまま動かない。
ヴェゼルは再び瓶を見る。
――瓶は本物だろう。
――中身は、かつては本物だった。
――だが、減っている。
その三つが、静かに重なる。
「……おかしいですね」
ぽつりと落とす。
「なぜ、こんな状態のものが残されているのか」
誰も答えない。
だがその沈黙の中で、アヴァンタイムだけが動かない。ただ静かに、こちらを見ている。
その姿はまるで――最初から答えを知っている者のようだった。
ヴェゼルの中で、思考がゆっくりと繋がっていく。
持ち出された。
使われた。
そして――残された。
あるいは。
最初から、ここに置かれたのか。
そこまで考えたところで、思考を止める。
まだ決めつけるには早い。
ヴェゼルは静かに立ち上がった。
「……これで十分です」
短く言う。
フリードが横目で見る。
「分かったのか」
「いくつかは」
それだけ答える。
声は落ち着いているが、その内側ではすでに次の段が組み上がり始めていた。




