第614話 アプローズの失踪09
翌朝、帝都はまだ完全には目覚めきっていなかった。
朝靄が石畳の上に薄く残り、通りを行き交う人影もまばらで、昨夜までの喧騒が嘘のように引いている。
その静けさの中を、ヴェゼルとフリードは言葉を交わさぬまま歩いていた。
向かう先は、昨日ガヤルドから聞いたブガッティの自宅。
すでに兵士たちの手配は整っているようで、現地には兵士と今日は立ち会いの文官が待機していると聞いている。ガヤルドも同行する予定だった。
やがて屋敷が見えてくる。石造りの重厚な外観は、主を失った今もなお威厳を保っているが、その佇まいにはどこか空虚が滲んでいた。
人の気配が抜け落ちた家というものは、こうも露骨に沈黙を纏うものかと、ヴェゼルはわずかに目を細める。
門前の兵士が二人の姿に気づき、すぐに姿勢を正した。
「お待ちしておりました」
短い挨拶。その声にはわずかな硬さが混じっている。
フリードが軽く頷き、そのまま奥へ視線を向けた。
「ガヤルド殿とフィリー殿は?」
「すでに中でお待ちです。それと……」
言葉が、そこで途切れる。ほんの一瞬の“間”。だが、それは単なる言い淀みではない。
何かを含んだ沈黙だったが、兵士はそれ以上続けず、口を閉じた。
フリードは一瞬だけ視線を向けるが、すぐにそれを追うことはやめる。
意図的に伏せたのか、それとも言うべきか迷ったのか。いずれにせよ、今ここで問う意味は薄いと判断し、小さく息を吐いた。
「案内をしてくれ」
短く告げる。兵士が頷き、門を開く。
――すでに、来ているようだ。
足を踏み入れた瞬間、そう確信する。庭の空気は静かだが、完全な無人ではない。
わずかな気配の重なりが、屋内に人がいることを伝えていた。
玄関を抜け、内部へと進む。整然としているはずの空間に足を踏み入れた瞬間、わずかに違和感が走った。
生活の温度がない。空気が澱んでいる。鼻に残るのは、掃除された家の匂いではなく、しばらく手が入っていない場所の乾いた埃の匂いだった。
視線を落とせば、その理由はすぐに分かる。
履き物が下駄箱に収められず、玄関先に雑然と散らばっている。向きも揃えられておらず、そのまま放置されていた時間だけが残っていた。
さらに奥、壁際の棚には封も切られていない手紙がいくつも積み上がり、整理されているわけでもなく、ただ置かれ続けているだけだった。
ヴェゼルはその光景を一通り見渡し、小さく首を傾げる。
「……侍女や手伝いは、雇っていなかったのかな」
独り言のように零した言葉だったが、すぐ近くで、ガヤルドが面倒そうに答えた。壁にもたれ、腕を組んだまま視線も向けない。
「さあな。あの男は、そういうことすら面倒だと切り捨てる類の人間だ」
吐き捨てるような一言だった。興味も関心もない。ただ事実を言っただけという声音。
「生活なんぞ後回しで、研究だけできればいい――そういう奴だろうよ」
それ以上語る気はないとばかりに、視線を外す。
ヴェゼルは小さく息を吐いた。
整然としているようでいて、どこかが決定的に抜け落ちている。管理されているのは“物”だけで、“生活”ではない。
人の気配は薄く、ただ必要最低限の機能だけが残された空間。(……独り暮らしの研究者というのは、こういうものなのかな)
心の中でそう結論づける。納得というよりは、ただ事実として受け止めただけだった。
時間が止まったような静けさが、改めて空間に沈む。
「それよりもだ、遅いぞ。朝一番と言っただろうが」
開口一番、それだった。
フリードが肩をすくめる。
「予定通りだろうに」
短いやり取り。それ以上は続かない。ガヤルドは舌打ちをひとつ鳴らし、顎で奥を示した。
「今日は、アヴァンタイム第一席も来ている。言葉には気をつけろよ」
フリードとヴェゼルは一瞬だけ視線を交わす。
ガヤルドは吐き捨てるように続けた。
「責任者として顔を出したい、ということだそうだ」
その口調には、明らかに歓迎していない色が滲んでいた。
広間の奥、光の届きにくい壁際に、その人物はいた。
アヴァンタイムは静かに立ち、こちらを見ている。動かない。ただ、観察するように視線だけを向けていた。
「挨拶は不要だ。一応、魔法省の責任者として来たのだ。私がここでとやかく言うつもりはない」
低く抑えた声。それだけ告げると、再び壁際へと身を預ける。
その立ち位置は明確だった。関与しない――だが、見逃さない。
視線だけが、ヴェゼルたちを追っている。
ガヤルドが告げる。
「許可は降りている。好きに調べろ。ただし、勝手なことはするな。兵士と常に行動しろ」
フィリーはその後ろで小さく頷くが、その足取りはどこかぎこちない。
兵士が一歩前に出る。
「本日の捜索は、我々立ち会いのもとで行います」
ヴェゼルは頷き、すぐに動き出した。
最初に向かったのは研究室だった。アヴァンタイムが立っている。隣ではフィリーが緊張のためか固まっている。
ガヤルドが言う。
「アヴァンタイム様は今日は見ているだけだ。こちらで進めて構わないそうだ」
アヴァンタイムは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その目は、すでにヴェゼルへと向けられている。
フリードとヴェゼルは軽く黙礼し、扉を開けた。
そこには整然とした空間が広がっている。机、棚、器具。どれも過不足なく整えられている。
だが――
「……綺麗すぎますね」ヴェゼルの呟き。
フリードが横に並ぶ。「何もないな」
ヴェゼルは棚へと近づき、指先で軽く埃をなぞる。
「片付けられていますね。徹底的に」
ガヤルドが後ろから口を挟む。
「こんなもんではないのか?」
「“なかった”のではなく、“なくされた”可能性もあります」
淡々とした声。
その言葉のあと、室内の空気がわずかに張る。
そして――アヴァンタイムの視線が、わずかに細められたのを見てからヴェゼルが話す。
「ブガッティさんは一人暮らしと聞いています。他の部屋に比べて、この部屋は整理されすぎているとは思いませんか? 誰かが、後から手を入れているんじゃないでしょうかね」
ガヤルドが目を細める。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言え」
ヴェゼルはゆっくりと振り返る。
「誰かが何かを探して、そして片付けたのではないか、ということです」
その視線がフィリーへ向く。フィリーは一瞬だけ固まり、すぐに取り繕う。
やり取りの最中も。アヴァンタイムは一歩も動かない。
ただ――見ている。
やがてヴェゼルの声に、全員の視線が集まる。棚の一角。わずかな色の違い。
「……ここ何かが、置かれていた跡ですね」
フリードが低く問う。「何だ」
「分かりません。ただ――最近まで、確実にここに“何か”があったようですね」
ガヤルドが鼻を鳴らす。
「だから何だ。今はないぞ」
「ええ。今は、ないです」その言葉に、わずかな含みが落ちる。




