第613話 アプローズの失踪08
店を出た瞬間、昼の光が一気に視界へ流れ込んだ。だが、その明るさとは裏腹に、胸の内に沈んだ違和は消えない。
帝都のざわめきは相変わらずだが、それはもはや遠い音に過ぎず、ヴェゼルの意識はすでに別の場所へと向いていた。
歩き出してしばらく、フリードが低く口を開く。
「だいたいは……分かったのか?」
ヴェゼルはすぐには答えず、視線を前に向けたまま歩調を崩さない。やがて、わずかに息を吐いた。
「流れは、ほぼ分かったような……」
それだけで十分だった。
フリードはそれ以上は問わず、小さく頷く。だが、次に続いた言葉には、わずかな重みがあった。
「だが、決定打はなさそうだな」
その指摘に、ヴェゼルは肩をすくめる。
「ええ。現時点では、“そう見える”という程度です。だからこそ、明日ですかね」
視線がわずかに細まる。
「ブガッティさんの自宅。そこに何があるかで、線が一本に繋がるかもしれません。多分、俺の想像だと何かがあるのは確かです」
その言葉の裏にある確信は、隠しきれていなかった。
――あの喫茶店の部屋でアプローズさんは消えた。
――だが、それが始まりではないのだろう。
むしろ、結果だ。
「……店の中で完結していない、か」
フリードが静かに言う。
そしてふと肩をすくめた。
「それにしても、よくそこまで分かるな。俺にはさっぱりだ。いっそのこと、探偵でもやったらどうだ」
通りを歩きながら、横目でヴェゼルを見る。
軽口だった。だが、その言葉に対してヴェゼルは即座には返さない。
ほんのわずかに眉をひそめる。
その瞬間――ポケットの中で、小さな気配が動いた。左右のポケットからそれぞれ、ひょこりと顔が覗く。
まずは、気の抜けた声。サクラだった。
「ヴェゼル〜、ずっと暇なんだけど!」
不満を隠そうともしない声音。
反対側からは、きらきらとした目をしたジャスティが顔を出していた。
「面白いですね! まるで推理小説を読んでいるみたいです!」
興奮気味に言い切る。
「謎解き! 謎解きですよね! 謎解きは夕食の後ですね!」
ヴェゼルは、ちらりと二人を見下ろす。
ほんの一瞬、ため息を押し殺すように息を吐き――
無言でポケットに手を入れ、クッキーを一枚サクラの方に押し込んだ。
それが今日何度目かは、もう数えていない。
サクラはぱっと表情を明るくする。
「やった!」そのまま満足そうにポケットの奥へと消えていった。
一方でジャスティは、まだそっと顔を出したまま身を乗り出している。
「この後どうなるんですか? 犯人は誰なんですか? やっぱり組織ですか? アプローズさんは大丈夫なんですよね?」
矢継ぎ早に言葉を重ねる。
ヴェゼルはそれに答えない。ただ、わずかに視線を逸らした。
その顔は――どこか苦々しい。
なぜ、自分の周りでは、こうも次々と面倒事が起こるのか。
胸の内で、言葉にならない感情が沈む。まるで、逃げ場のない流れに巻き込まれているような感覚。
無意識に、奥歯を噛み締めていた。
それを見て、フリードがふっと笑う。
「楽しそうでいいじゃないか」
気楽な声音。ヴェゼルは、ゆっくりと顔を向ける。
そして――さらに苦い顔をした。
ヴェゼルはフリードに話を続ける。
「内部に協力者はいますね。ですが、それだけでは足りない。運び出した“先”があると思いますよ」
その一言で、状況の重さが変わる。
ただの誘拐ではない。
計画的だ。「……組織か」
「その可能性が高いですね。それも、帝都の内部事情に通じている者。でなければ、あの手順は取れませんよ」
歩きながら、ヴェゼルは指先で軽く空をなぞる。
フリードの眉がわずかに寄る。
「薬を盛り、裏口から運び出す……それだけなら、どこの裏社会でもやる」
ヴェゼルは否定しない。
「ええ。ですが、その後が違います」
視線がわずかに落ちる。
「アプローズさんは、ただの一般人ではないですよね。元魔法省の人です。その人物を、帝都のど真ん中で攫って、そして、騒ぎを最小限に抑えています」
そこまで言って、わずかに口元が歪んだ。
「普通は、できませんよ」
フリードは黙る。その意味を理解しているからだ。
――見逃されている。
――あるいは、黙認されている。
どちらにせよ、単なる犯罪者の領域ではない。
ヴェゼルは一度だけ目を伏せ、それから静かに言葉を継いだ。
「……さいわいなのは、それなりの組織にアプローズさんは攫われただろう、ということですね」
フリードが視線を上げる。
ヴェゼルは続ける。
「少なくとも、無秩序な犯罪ではない。身の危険や、最悪の事態――つまり殺害の可能性は低いでしょうね」
その言葉に、空気がわずかに緩む。だが次の瞬間、ヴェゼルの声は静かに温度を下げた。
「相手がアプローズさんを攫って、その見返りとして何を望んでいるのかは分かりませんが……どちらにしろ、命の危険がないのは不幸中の幸いです」
そして、ほんのわずかに目を細める。
――本当に、それだけだろうか。ふと、そんな思考が脳裏をかすめる。
見返りなど求めずに。あるいは交渉すら前提にせず。
ただ、別の理由で連れ去ったのだとしたら。
そして――“命令そのものが、別の場所から降りている可能性”。帝国の上層部から。
ヴェゼルはその可能性を、言葉にすることなく飲み込んだ。
「この国の……上の方か」
低い声。ヴェゼルは即答しない。ただ、小さく息を吐いた。
「可能性は高いですね」
その曖昧さが、逆に現実味を帯びていた。
やがて、バネット商会の建物が見えてくる。見慣れた外観が、どこか違って見えた。
警備の従業員に軽く挨拶をして、中へ入るといつもの喧騒が迎えてくれる。だが、ヴェゼルの意識はそこには向いていない。
足を止めることなく奥へ進み、静かな部屋へ入る。
扉が閉まると同時に、空気が変わった。
フリードが腕を組む。
「……で、どう見るんだ?」
直球の問い。ヴェゼルはフリードと一緒に応接室の椅子に腰を下ろし、わずかに天井を見上げた。思考を一度、形にする。
「まず、誘拐自体は計画的です」
指を一本立てる。「偶発ではない」
次に、もう一本。「内部協力者がいる」
そして三本目。「外部に運ぶための受け皿がある」
そこで指を下ろす。
「つまり、単独犯ではない」
フリードが頷く。
「そこまでは俺もそう思う」
その問いに、ヴェゼルは迷わない。
「で、目的はエリクサーです。もしくは、それに付随する情報。ブガッティさんの研究ですね」
即答だった。
フリードの視線が鋭くなる。
「……ならば、魔法省内部の線かな」
「ええ」否定はしない。
だが、そこでヴェゼルはわずかに言葉を切った。その一言で、空気が変わる。
「ただし、それだけでは、説明がつかない点があります」
フリードが眉を寄せる。「何だ」
ヴェゼルはゆっくりと視線を上げる。
「……フィリーさんです」
その名が出た瞬間、わずかな沈黙が落ちた。
「彼女は、“知りすぎている”とは思いませんか?」
静かな指摘。
「入省二年目、宝物庫管理。それで、エリクサーの最終段階に近い研究成果」
首を横に振る。「あり得ませんよ」
フリードは低く唸る。
「だが、本人はそう言っていたな」
ヴェゼルは肯定する。
「ええ、そして、口が滑ったのか“見た”とも言ってましたね」
その言葉が、重く響く。
「……資料か」
「違いますよ」即答だった。
「資料なら、あの反応にはなりません」
視線が細まる。
「何かと“比較”していましたからね」
フリードの目がわずかに見開かれる。
「……実物か」
ヴェゼルは小さく頷く。
「少なくとも、一度は目にしているでしょうね。あるいは――触れているかも」
そして、静かに付け加えた。
フリードはしばらく沈黙し、やがて口を開いた。「……宝物庫か」
「可能性は高いですね」短い肯定。だが、それ以上は踏み込まない。
まだ、線が足りない。
「明日で分かりますよ。ブガッティさんの自宅に、何が残っているか、あるいは――何が“置かれているか”」
その言い方に、フリードがわずかに眉を動かす。
「……置かれている?」
ヴェゼルは薄く笑った。「可能性の話です」
だが、その目は笑っていない。
――用意された証拠。
――仕組まれた流れ。
その匂いが、確かにあった。部屋の中に、静かな沈黙が落ちる。
外の喧騒は変わらない。だが、その裏側で――何かが確実に動いている。
そしてヴェゼルは、ゆっくりと目を閉じた。
――明日。
すべてが、一段進むだろう。
そのときだった。
ふと、背筋のあたりに妙な“圧”を感じる。
言葉にはならない、だが確かに意志を持った何かが、じわりと訴えかけてくるような感覚。
ヴェゼルはわずかに目を開き、内心でため息をついた。
胸元のポケット――そこからは、遠慮の欠片もない気配が二つ。さらに、足元に落ちる自分の影の中からは、「空腹」だからなんとかしろと二つ分の存在が、無言のまま“早くして”と圧をかけてきている。
(……お腹が減った、のか)声に出さず、思考だけで呟く。
バネット商会の屋敷には、お腹を満たすものがあることを彼らはよく知っている。
だからこそ遠慮もなく、こうして圧だけを寄越してくる。
ヴェゼルは小さく肩を落とした。
(胸ポケットに二柱、影に二匹……)
一瞬だけ、視線を伏せる。(……なんだかなぁ)
重い話の最中だというのに、この遠慮のなさ。
緊張感と現実感が、妙な形で共存している。
だが――それでも思考は途切れない。
明日、すべてが繋がる。
その確信だけは、静かに、確実にそこにあった。




