第64話 錬金塔 長官への報告書
すいません。どうしても気になりまして、第60〜65話を2025年9月18日6:00〜7:00の間に、話を大規模に入れ替えました。
老齢のイグニス・エスクード子爵は、錬金塔の最上階、書庫兼執務室に腰を下ろしていた。
窓の外には灰色の雲が垂れ込み、冬を控えた冷たい風が塔の石壁を鳴らす。机上に積み上がった報告書の中から、ひときわ目を引く分厚い封筒を取り上げると、彼はゆっくりと眼鏡をかけた。
――錬金塔 退職者動向報告書。
その表題を見ただけで、彼は少し苦々しい表情を浮かべた。錬金塔は帝国最大の知の拠点であると同時に、苛烈な権力闘争の渦中に常に晒されている。
退職者の中には野心を抱き、外で怪しげな研究を続ける者がいないとは言えない。
それらの動向を逐一追うことも、長官の務めのひとつだった。
封を切り、目を通した瞬間、彼の瞳がわずかに見開かれる。
――オデッセイ。
その名を目にした途端、記憶の奥底から鮮烈な光景が甦った。
史上最年少で錬金塔に入省し、ほんの数年で退職を余儀なくされた稀代の才女。
「……あの娘か。」思わず声に出す。
塔の同僚たちからは「異質すぎる」と警戒され、アトミカ教からは「神の摂理を冒涜する」と糾弾され、塔の内部からも外からも突き上げを受けていた。
その天才的な頭脳で、入省わずか一年目にして解毒薬の廉価大量生産を実現し、収納魔法と鑑定魔法の理論的真理に迫った。
――それがかえって恐れられたのだ。
イグニスは深く息を吐いた。
退職の経緯は、表向きは「本人の希望」。
しかし実際には、教会と貴族院からの強烈な圧力により、錬金塔としても庇いきれなかった。イグニス自身もその決定に関わった一人である。
だが今にして思えば、あれは塔にとって取り返しのつかない損失だったと今にして思うのだ。
そして報告書は続く。
――退職直後、オデッセイは冒険者となり、間もなく辺境の騎士爵の妻となった。
イグニスは思わず口の端を歪める。
「フリード・フォン・ビック……だったか?」
初代から一度も陞爵せず、領地は痩せ、常に不作に苦しむ万年騎士爵。帝国貴族の序列の最底辺に位置し、陰で嘲笑の的となっていた家。
なぜ、あの才女が――と、当時は誰もが首をかしげた。
それから何年も、特に目立った報告はなかった。
「市井に埋もれたのだろう」と半ば忘れられかけていたその矢先。
――昨年から急に、矢継ぎ早に報告が上がってきたのだ。
まず、知育玩具なるものを開発し皇妃に献上したという一報。
次に、皇族の子弟が飛びつき、それが教育熱心な高位貴族の間で爆発的な人気となったこと。
その後も、甘味の安定生産、燻製肉の製造、領地での穀物増産、毒芋の食用化と酒の醸造――。
イグニスは読み進めるほどに、心臓が冷たく締めつけられるのを感じた。
「……まるで、領地経営の天才ではないか」
しかも、そこ書かれていたのは――オデッセイの6歳の息子が領政に関わっているという。
鑑定の儀では「不遇魔法」と烙印を押され、収納魔法なのに教会からも嘲笑されたはずの少年。
だが彼はその収納魔法を駆使し、領地の革新にも寄与していると報告書は告げる。
「収納魔法…………」
イグニスは震える手で報告書を閉じ、額を押さえた。
オデッセイが塔に残っていたなら、きっとその魔法の研究は飛躍的に進み、今とは違う帝国の姿があっただろう。
そう思うだけで、背筋に冷たいものが走った。
さらに追い打ちをかけるように、報告書の最後にはこうあった。
――この地には妖精の加護があるとの噂が広がりつつある。
「……妖精の、加護だと?」
イグニスの胸中に、嫌なざわめきが広がる。
妖精の加護など、伝説や寓話の中のもの。だが帝国の歴史を遡れば、確かに稀にそうした存在に導かれた者がいたとことが事実として残されていた。
老齢の彼は椅子に深く沈み込み、長い沈思に耽った。
オデッセイ――あまりにも賢く、異質で、そして塔が持て余した女。
その子が、今や帝国に波紋を広げようとしている。
「……放置するには、危険すぎるな」
やがてイグニスは呼び鈴を鳴らした。
闇の中から、音もなく一人の影が現れる。
「……影か」
「御身のお呼びに従い、ここに」
低く抑えた声が応える。
帝国皇帝直属の密偵組織――影の者。
イグニスは目を閉じ、ひと呼吸置いてから告げた。
「ビック領の動向を深く探れ。特に、オデッセイとその子ヴェゼル。……妖精の噂の真偽もだ」
「御意」
影は闇に溶けるように消えた。
再び一人きりになった部屋で、イグニスは机に両手を突き、深い溜息をついた。
堂々巡りの思考が脳裏を渦巻く。
あのとき庇っていれば。
あの才女を追いやらなければ。だが今さら後悔しても遅い。
「オデッセイ……お前は、何を見ているのだ」
老いた錬金塔長官の声は、冷たい石壁に吸い込まれていった。
――そして、帝国と辺境を巡る新たな波乱の幕が、静かに上がろうとしていた。




