第606話 アプローズの失踪01
翌朝、朝食を済ませた後、ヴェゼルとアプローズは応接室で向かい合っていた。
窓から差し込む朝の光はまだ柔らかく、卓上の茶器に淡い反射を落としている。
夜のうちに整えられた空気は澄み、どこか張り詰めた静けさが室内に漂っていた。
フリードも同席していたが、椅子に深く腰掛けたまま二人を一瞥すると、やがてゆっくりと立ち上がる。
「……今のうちに、剣を振っておく」
視線がわずかにヴェゼルへ向く。
「話は任せる。だが、何かあればすぐ呼べ」
短く、それだけ告げる。その声音に軽さはない。任せるというより、預けるという響きに近い。
そして一歩踏み出し、扉へ向かいながら続ける。
「頭を使う話は、お前の方が向いているからな。俺は――外で備えておく」
振り返ることなくそう言い残し、扉を開けて部屋を出ていった。閉じられた扉の向こうで、足音が遠ざかっていく。
その背を見送りながら、ヴェゼルはわずかに視線を落とした。
――任せた、か。
無責任な放任ではない。必要な役割を見極めた上の判断。そう理解できるからこそ、言葉の重みが静かに残る。
視線を上げると、向かいに座るアプローズもまた、姿勢を正していた。表情には緊張が滲んでいる。
今後の動きを詰めるべきだろう。
言葉を選び、切り出そうとした、その時――
扉が、控えめに叩かれた。商会の使用人が一礼し、告げた。
「アプローズ様に、お客様です。若い女性の方が」
その一言で、場の温度がわずかに変わる。
ヴェゼルは視線だけでトラビックに合図を送り、何も言わずに席を整えた。トラビックは静かに頷き、壁際へと位置を取る。
「……ここでお会いしましょう」
アプローズが応じ、応接間へと通される。
室内は先ほどまでの静けさを保っていたが、扉が開いた瞬間、その均衡は微かに揺らいだ。
バネット商会の使用人が丁寧に扉を開け、その後ろから一人の女性が姿を現す。
魔法省の紋章をあしらったローブは、過度な装飾を避けながらも、その所属を隠す気はないという意思を静かに示していた。
年の頃はアプローズとさほど変わらない。
だが、その立ち居振る舞いには、わずかながら“選ばれた側”の自負が滲んでいるように感じた――それを、柔らかく包み隠すような作り笑顔とともに。
案内されるまま応接間に入ると、既に席に着いていたアプローズへと視線が向いた。
アプローズ、ヴェゼル、そしてその背後に控えるトラビック。
その瞬間だった。アプローズの表情が、はっきりと変わる。
「フィリーさん!」
声は抑えきれず弾み、椅子を引く音も構わず立ち上がって駆け寄る。その動きに、場の静けさが一瞬だけ崩れた。
呼ばれた女性――フィリー・イスレロは、ぱっと顔を綻ばせ、やや大げさに両手を胸元で合わせてみせた。
「きゃあっ! アプローズさん〜! お元気でしたかぁ〜!?」
語尾がわずかに伸び、声は甘く、響きは柔らかい。わずかに身を乗り出しながら駆け寄るその仕草は、どこか計算された軽やかさを帯びていた。
互いに手を取り、軽く握る。フィリーはそのまま両手で包み込むようにして、少しだけ強く握った。
「もぉ〜、急にいなくなっちゃうんですもん……すっごく寂しかったんですよぉ?」
言葉の最後にわずかに首を傾げ、上目遣いで覗き込む。
外から見れば親しい友人同士の再会そのものだった。
だが、その光景を見つめるヴェゼルの視線は、どこか冷えている。
二人はそのまま席へ戻り、向かい合う形で腰を下ろす。アプローズの隣にヴェゼルが静かに座り直し、トラビックは壁際に下がったまま動かない。
フィリーは、まるでヴェゼルの存在など最初からなかったかのように、視線をアプローズへ向け続ける。
「突然、魔法省を辞められて……驚いちゃいましたぁ〜。びっくりしちゃってぇ……でもでもぉ、やっぱり寂しかったですよぉ!」
声音は甘く、言葉の端々に過剰な抑揚が乗る。だが、その奥に、ほんのわずか――言葉にしきれない“余裕”が混じっている。
何かを失った者のそれではない。むしろ、何かを手にした者の雰囲気に近い。
フィリーはそこで、ふと思い出したように手を打った。
「あっ、そうそうぉ! どうしてここがわかったのかって、気になりますよねぇ?」
くすりと笑い、わずかに身を乗り出す。
「昨日の夜なんですけどぉ、魔法省のヴェント様がバネット商会さんで買い物をしてた時に、たまたまアプローズさんを見かけたって」
ここでアプローズにもう一度笑顔になって語る。
「それで私がいつもアプローズさんがいなくなってさみしいって言っていたのを覚えていて、それで私に教えてくれたんですー。だから今日まだいるかなあと思って、それで今日、訪ねて来ちゃいましたぁ」
アプローズは素直に頷くが、その隣で、ヴェゼルだけはわずかに視線を細めた。
――偶然、か。
帝都の夜。人の流れも多く、出入りも絶えないバネット商会。
その中で、狙い澄ましたように知人を見つけて翌朝すぐにそれを同僚から教えてもらう。
あり得ない話ではない。
だが――都合が良すぎる。
ヴェゼルは何も言わない。ただ、その違和感を否定もせず、肯定もせず、静かに胸の奥へと沈めた。
表情は変えない。
だが、最初の疑問は、確かにそこに生まれていた。
「申し訳ありません……急なことだったので…」
アプローズは素直に頭を下げる。そこに嘘はない。だが、だからこそ、フィリーの笑みとの温度差が際立つ。
「いいえぇ〜! アプローズさんは魔法省でもブガッティ様の弟子でその若さで平民でありながらも、すごかったですもん! きっと、もっといい就職口に就かれたんですよねぇ〜? さすがですぅ〜!」
両手を軽く叩きながら褒める仕草。言葉は称賛に満ちているが、その調子はどこか軽そうに見える。
しばらくのやり取りの後、ようやくフィリーの視線が横へ流れた。まるで今気づいたかのような自然さで、ヴェゼルを見つめる。
「……あれぇ? こちらの方はぁ?」
問いは軽く、やや首を傾げる仕草付きだった。
だが、その一瞬――ほんの刹那、視線の奥に浮かんだものを、ヴェゼルは見逃さなかった。
値踏み。あるいは、即時の切り捨て。なんだ子供か、と。
アプローズがその視線に気づくことなく答える。
「今度、僕の師匠になってくださる方です。ヴェゼルさんといいます」
その言葉に、フィリーの眉がわずかに動く。
そして、ゆっくりとヴェゼルを見据えた。
「……師匠、ですかぁ?」
少し上目遣いで考える。すぐに、整えられた笑顔が戻る。
「すごーい! さすがアプローズさんですぅ! ビック家の……たしか、『あの』ヴァリーさんの婚約者様でしたよねぇ〜?」
わざとらしく目を見開き、軽く手を口元に当てる。
言葉は丁寧に整えられている。だが、ほんのわずかに引っかかった言い直しが、露骨に“演技”の匂いを残す。
その奥にある本音を、隠しきれてはいない。
ヴェゼルは表情を変えないまま、ただ頷くだけに留めた。
その沈黙に興味を失ったのか、フィリーはすぐに視線をアプローズへ戻す。
「それでぇ……実は、フィリーからお願いがあるんですぅ」
声音が、ほんの少しだけ低くなる。
だがすぐに、また甘い調子へ戻る。
「ここではちょっとぉ、話しづらい内容なのでぇ……もぉ〜、恥ずかしいお話なんですぅ」
わざとらしく頬に手を当て、身体をわずかに揺らす。
「近くの喫茶店にぃ、行きませんかぁ? 個室もありますしぃ、ゆっくりお話したいんですぅ〜! フィリーの行きつけで、とっても安心なお店なんですよぉ」
提案は自然だ。場所も理由も、何一つ不審はない。
だが、ヴェゼルは、すぐに口を開いた。
「内容次第でしょうけど、ここでお話しいただくことはできませんか。なんなら俺たちは聞こえないように壁際に移動しますが」
声は穏やかだが、拒絶は明確だった。
フィリーは一瞬だけ視線をヴェゼルへ向ける。
今度は隠そうともせず、わずかな苛立ちが滲む。だが、それもすぐに消えた。
「もぉ〜、そういうのじゃないんですぅ」
軽く頬を膨らませる仕草。
「女の子同士のぉ、ひみつのお話なんですぅ! ここだとぉ、ちょっとぉ……ね?」
言いながら、アプローズにだけわかるように視線を寄せる。
「喫茶店ですしぃ、安全ですしぃ、護衛の方も外で待っていただければぁ……全然だいじょーぶですよぉ!」
言葉は整っている。反論を先回りして潰す、慣れた言い回し。
アプローズが迷いがちにヴェゼルを見る。
その視線に、ヴェゼルは短く息を吐いた。
完全に拒めば、逆にこちらの警戒を悟られるかもしれない。かといって、無防備に送り出す気もない。
――この女性は、どこまで知っているのだろうか。
魔法省所属でアプローズと親しい間柄。
だが、エリクサーや情報漏洩の嫌疑が、どの範囲まで共有されているのかは不明だ。
今の言動を見る限り、探りを入れているようには見えない。
だが、断定はできない。
知らないからこそ無防備なのか。
それとも、知った上で隠しているのか。どちらにも転び得る。
ヴェゼルはわずかに視線を伏せる。
――ならば、前提を決めようか。
この場では、何も知らない人物として扱う方が無難だろうか。
余計な警戒を見せれば、それだけで状況は歪む。それ自体が新たな火種になりかねない。
「……わかりました。ただし、うちのトラビックを喫茶店の入口まで同行させますね」
小さく頷く。
背後の男が無言で一礼する。
フィリーは一瞬だけ間を置いたが、すぐにぱっと笑顔を咲かせた。
「はぁい! もちろんですぅ〜! さすがヴェゼルさん、しっかりしてますねぇ〜」
その返答はあまりに軽く、あまりにあっさりしていた。
違和感が、わずかに深まる。
――拒まない、か。
警戒されることを前提にしていないのか。
それとも、警戒されても問題ないと踏んでいるのか。
やがて三人は席を立ち、応接間を後にする。
商会の廊下は静かで、外の喧騒はまだ遠い。扉を抜け、通りへ出ると、昼の光がやや強く感じられた。
トラビックが一定の距離を保って後方につく。
アプローズとフィリーは並んで歩き、会話を続けている。その声音は甘く、軽く、先ほどまでと変わらない。
しかし、フィリーの歩調は、わずかに早い。
ほんのわずか。気づく者はほとんどいない程度に。
そして――バネット商会の扉を出た、その一瞬。
フィリーの口元が、ほんの僅かに歪んだ。
先ほどまでの甘さは消え、そこに残ったのは、冷えた線のような笑み。
それはすぐに元の形へと戻り、何事もなかったかのように彼女はアプローズへ顔を向ける。
その変化は、誰の視界にも入らなかった。
――そして、その日。
アプローズは、戻らなかった。




