第605話 皇帝の使者とアプローズ
応接間は、商会の建物にしては過度な装飾を避けながらも、訪れる者の身分を見誤らせぬ程度には整えられていた。
磨き上げられた木の卓、深く腰を預ければ沈み込む革張りの長椅子。窓からの光は薄布で和らげられ、外の喧騒は厚い壁に遮られている。
その静謐の中、すでに一人の男が席に着いていた。
帝都官吏特有の端正な衣。背筋は真っ直ぐに伸び、場を支配する側の余裕と、他者を量る癖が滲んでいた。
皇帝の使者――。
その肩書きだけで、この部屋の空気はわずかに張り詰める。
扉が控えめに叩かれ、先に一歩、トラビックが入り、視線を巡らせてから、わずかに身体を引いてフリードとヴェゼルが入室する。
フリードはぎこちないながらも上体をわずかに傾ける。深さは浅いが、無礼とまではいかない線で留まっている。
ヴェゼルはそれよりもわずかに整った所作で頭を下げた。
使者はその様子を一瞥する。
だが、その視線には露骨な侮りをヴェゼルは見逃さなかった。
「遠路、ご足労いただき感謝する」
フリードが口を開く。言葉は簡素だが、最低限の礼を踏まえたつもりだ。着席を促すように手を差し出した。
「お掛けくだされ」双方が席に着く。
背後には、自然な流れでトラビックが控えた。フリードの後ろ、視界の端に収まる位置。
使者は一呼吸置き、懐から封書を取り出す。
封蝋には、帝の紋章。
「皇帝陛下よりの書状にございます」
声音は整っている。誇示ではなく、あくまで職務としての厳粛さを帯びていた。
差し出された書状を、トラビックが受け取り、封蝋の状態を確認し、そのままフリードへと渡す。
フリードは封を切り、中を読む。
短視線を動かす時間もわずかだった。
そして、自然な動作で横へ差し出す。
ヴェゼルへ。その一連の流れに、使者の眉がわずかに寄る。
本来、帝の書状は受け手本人のみが確認するものだ。だが、この場でそれを咎めるのは筋違いでもある。
ヴェゼルは静かに受け取り、視線を落とす。
――明日、午後。謁見を許す。
簡潔な文面。余計な修飾はない。
読み終え、顔を上げる。フリードと視線が交わる。
わずかな間。
そして、互いに頷く。
「確かに拝領した。明日、伺わせていただく」
使者はそれを確認し、静かに立ち上がる。
「それでは、用向きは果たしましたゆえ――」
一礼。形式としては十分な深さ。
踵を返そうとした、そのとき。
「少々、お待ちください」
落ち着いた声がかかる。ヴェゼルだった。
使者が振り返る。視線には、わずかな不快が滲む。
ヴェゼルは姿勢を崩さぬまま続ける。
「明日の謁見につきまして、一点お伝え願いたいことがございます」
言葉は丁寧だが、引く気配はない。
「私の獣魔二匹と、同行者二名、加えて従者一名を伴う予定です。事前にお耳に入れておいていただければと」
空気がわずかに張る。
使者の目が細められた。
「……そのような記載は、書状にはございません」
声は抑えられているが、拒絶の意思は明確だ。
「謁見は、指定された者のみが許されるもの。軽々に付随者を増やすのは――」
「承知しております」
言葉を被せることなく、だが流れを止める。
ヴェゼルの声は静かだった。
「その上で申し上げております。本件は、帝国の今後に関わる可能性がございます。ゆえに、必要な者を伴うべきと判断いたしました」
視線を逸らさない。
「もし、この場でお断りになるのであれば――従います。が、その判断の責は、貴殿にお願いすることになりますが」
沈黙が落ちる。使者の喉がわずかに動いた。
ここで拒めば、それなりの理由が求められる。だが、それを即座に提示できる立場ではない。
やがて、視線を外し、短く言う。
「……では、持ち帰り確認いたします」
それ以上は言わない。
形式的な一礼だけを残し、今度こそ踵を返す。
扉が開き、閉じられる。
その音は控えめだったが、どこか乾いていた。
残された静寂の中、先ほどまでの緊張だけが、わずかに遅れて沈み込んでいく。
しばしの静寂が落ちたあと、ヴェゼルはごく浅く息を吐き、思考を切り替えるように視線を上げた。
先ほどまでの応接の余韻はすでに頭から切り離されており、残っているのは、これから起こり得る事態への現実的な対処だけだった。
そして、隣に腰掛けるフリードへと向き直る。
「父さん、アプローズさんがよろしければ――うちで雇いませんか」
唐突ではあったが、その声音に迷いはない。提案というより、既に必要な手として整えられたものを差し出している響きだった。
フリードは眉をわずかに動かすが、遮らずに続きを促すように顎を引く。
「今の状況、アプローズさんは危うい立場にあります。情報漏洩やエリクサー絡みの窃盗といった名目で、いくらでも理由を付けて拘束できる位置です。元魔法省所属とはいえ、現在は後ろ盾がない」
言葉は淡々としているが、その内容は容赦がない。現実をそのまま切り出している。
「ですが、こうて直参で、教国から金勲章を受けた騎士爵家の従者となれば話は別です。立場が明確になれば、軽々しく手を出されることはなくなるはずです」
そこでようやく、フリードは短く鼻を鳴らした。
「なるほどな。筋は通ってる。まぁ、本人がいいなら俺は構わんぞ」
そして、ほとんど間を置かずに頷く。その一言で、話は決まったも同然だった。
ヴェゼルは静かに視線を移し、アプローズを見る。逃げ場を与えないわけでも、急かすわけでもない、ただ選択を委ねる視線。
「強制はしません。ただ、うちの所属になれば守れる範囲は確実に広がります。今は……ただの知人に過ぎませんから」
その一線を、あえて言葉にする。
アプローズは一瞬、視線を落とし、拳を握りしめた。逡巡は短い。やがて顔を上げると、その表情には迷いよりも覚悟が浮かんでいた。
「……ぜひ、お願いしたいです。ここまで考えていただけるとは思っていませんでした。本当に……ありがとうございます」
深く頭を下げる。その動作には、これまで背負ってきたものと、これから預けるものの重さが滲んでいた。
フリードが軽く肩をすくめる。
「礼はいい。で、条件だ。何か希望はあるか? 言っておいてくれ。後から条件が違うと言われるのは面倒だからな。まぁ金は期待するなよ、うちはまだ立て直しの途中の貧乏騎士爵だ」
ぶっきらぼうな物言いだが、逃げ道を先に用意するあたりは不器用な気遣いだった。
アプローズは慌てて首を振る。視線は自然とヴェゼルへ向かっていた。
「あの……お金は、生活できる分だけで十分です。それよりも、僕、一つだけお願いがあります」
わずかに息を整え、言葉を続ける。
「魔法を、教えていただきたいんです。ブガッティ様が仰っていました。ヴァリー様がヴェゼルさんに教えられて大きく変わったと。そして、ブガッティ様もまだ学べることがあると……あんなに嬉しそうに」
言葉が自然と熱を帯びる。一歩踏み出すように続けた。
「僕も魔法が好きなんです。だから――師事させてください。第二の師匠として」
そのまっすぐさに、ヴェゼルはわずかに視線を外し、苦笑を浮かべる。
「……いえ、ブガッティさんと比べられるようなものではありませんよ。それに師匠だなんて」
謙遜というより、本音だった。だが、その逃げ道はすぐに塞がれる。
「それでもです。あの方が認めたのですから」
一切の揺らぎがない眼差し。退く気はないと、はっきり示していた。
ヴェゼルは一拍だけ思考を置き、やがて肩の力を抜く。
「……では、師弟ではなく、一緒に学ぶという形で。それと、“様”はやめてください」
その言葉に、アプローズの表情が一気に緩む。
「はい! 若師匠!」
「……せめて、“さん”でお願いします」
間髪入れずの返しに、フリードが堪えきれずに吹き出した。張り詰めていた空気が、そこでようやくほどける。
その夜――。
食後の落ち着いた時間、再び扉が叩かれた。現れたのは別の使者。先ほどとは対照的に、用件だけを簡潔に告げる。
「皇帝陛下より伝言です。明日の謁見、しばし日程に猶予をいただきたい、とのこと」
それだけ言い残し、深く礼をして去っていく。
短い言葉。しかし、その裏にある意味は重い。
ヴェゼルは静かにその事実を受け止め、わずかに目を細めた。
――舞台は整おうとしている。
あとは、踏み込むだけだった。そうみんなが思っていた。




