第604話 図書館長03
図書館の重厚な扉をくぐり外気に触れた瞬間、それまで押し殺されていた音と気配が一気に戻ってきた。
石畳を行き交う人々の足音、遠くの馬車の軋み、かすかな喧騒――それらすべてが、あの静謐な空間とは別世界であることを改めて実感させる。
そして、その中でひときわ賑やかな声が弾けた。
「すごかったです! 本当にすごかったですね!」
ジャスティだった。ヴェゼルの胸のポケットから顔を出して、身振り手振りを交えながら、今しがた見てきたものを一気に吐き出していく。
「このバルカン帝国や近隣の国の地理も文化も歴史も、こんなに体系的にまとまっているなんて初めて見ました! それに地域ごとの特産品とか、交易の流れとか――あっ、それとお菓子の本もありました!」
「……お菓子?」
ヴェゼルが思わず聞き返すと、ジャスティは力強く頷いた。
「はい! 南方での砂糖の作り方とか、果物の加工とか、焼き菓子の種類とか! あれはとても興味深かったです!」
どうやら、かなり偏りのある読書をしてきたらしい。
「ただ……本が大きくて……」
そう言って、ちらりとトラビックを見る。
トラビックは苦笑しながら肩をすくめた。
「私が本をめくる係でしたな。ジャスティさんが指示するので、その通りに」
「なるほど……」
ヴェゼルは少しだけ申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、護衛なのに」
「いえいえ」
トラビックは穏やかに笑った。
「元々本は好きなので。改めて帝国の歴史を読み直す機会になりました。むしろ、ありがたいくらいです」
そのやり取りの最中、ヴェゼルの胸元がもぞもぞと動いた。
「……お腹減った」
不機嫌そうな声とともに、サクラが顔を出す。頬を少し膨らませ、明らかに不満げだ。
「さっきからずっと言ってるじゃないの……」
「言ってたね……」
ヴェゼルが苦笑すると、トラビックが一歩前に出る。
「それでしたら、私の知っている店へ行きましょう。軽くつまめるものもありますよ」
フリードたちが宿で待っていることを思い出し、一瞬だけ逡巡するが――
「……軽く、なら、まぁ、いいか…」
「軽ーくね!」
サクラが即座に念を押す。
その“軽く”がどこまで信用できるかはさておき、三人はトラビックに案内されるまま歩き出した。
やがて辿り着いた店は、外観こそ落ち着いているが、どこか気品のある造りだった。扉を開けると、すぐに店員が顔を上げる。
「あ、トラビックさん。いらっしゃいませ」
どうやら顔馴染みらしい。
「個室、空いているかな?」
「ええ、ちょうど一つ」
自然なやり取りのまま、奥へと通される。
個室に入った途端だった。
ぱっと、サクラとジャスティが飛び出す。
「わぁ……!」
「広いですね!」
突然現れた妖精二柱に、店員の目が丸くなる。しかし、トラビックが軽く視線で制すると、すぐに事情を察したのか、何事もなかったかのように一礼した。
「こちらは口が堅い店でして」
トラビックが小声で言う。
「ベンティガ様もよくご利用になります。商談なども多いので」
なるほど、とヴェゼルは納得する。
メニューを開くが、正直よくわからない。
「お任せします」
そう告げると、トラビックは一瞬サクラとジャスティを見てから注文した。
「果実のジュースと……甘味を。パンケーキに果物を添えて」
「私は二人前!」
即座にサクラが挙手する。
「私は……一人前、でしょうか?」
ジャスティは遠慮がちだ。
トラビックは一瞬だけ考え、にこりと笑った。
「……六人前ほど、盛り合わせで」
店員は一切の迷いなく頷き、去っていった。
「六人前……」
ヴェゼルが小さく呟く。
「軽く、とは」
「軽い軽い!」サクラが元気に言い切った。
やがて運ばれてきたのは――
巨大な皿だった。
ふわりと焼き上げられた何枚もの分厚いパンケーキ。
その上に惜しげもなくかけられたシロップ。さらに彩り豊かな果物が山のように盛られている。隣には冷えた果実ジュース。
甘い香りが一気に広がる。
「……」
サクラの目が、輝いた。
「私、このパンケーキに飛び込んで浸かりながら食べてみたい!」
「やめて」
即答だった。
「絶対にやめて」
「えー……」
名残惜しそうにしながらも、さすがに実行には移さない。
取り分けようとしたその時。
「私はこの皿から直接食べる!」
サクラが堂々と宣言する。
結局、誰も止めなかった。むしろ、止められなかった。
各々皿に取り分ける中、サクラだけが大皿に突撃し、もぐもぐと食べ始める。
「……美味しい」
ヴェゼルが素直に呟く。
トラビックが少し誇らしげに言う。
「ここのシロップ、お分かりになりますか? ホーネットシロップです。うちの商会が卸しておりまして」
「なるほど」
ヴェゼルは頷く。
一方でサクラは、口いっぱいに頬張りながら言った。
「私、匂いでわかってたわ!」
「本当か?」
「たぶん!」
信用はしないことにした。
食事は和やかに進む。
サクラはひたすら食べる。ジャスティは行儀よく味わう。トラビックは静かに楽しみ、ヴェゼルはそれを眺めながら適度に口を動かす。
ふと、ヴェゼルは思い出す。
――そういえば。
先ほどまでサクラが入っていたポケットを覗く。
中には、クッキーの細かな欠片が大量に残っていた。
(……食べてたよな)
催促されて時々ポケットにクッキーを放り込んでいた記憶がある。図書館でも補給していたよな。
それでもこの食欲。(どこに入っているんだろうな……)
小さな体を見ながら、毎度の疑問が浮かぶ。
やがて――
食事が終わる。案の定だった。
サクラがテーブルの上で、大の字になっていた。
腹が見事に膨らみ、へそまで露出している。
「……」
「ヴェゼル……」
力のない声。
「私、もう動けない……ハウス……」
「犬かよ」
思わず突っ込むが、聞いていない。
仕方なく、ヴェゼルはそっと両手でサクラを掬い上げる。
そのままポケットへ――
「……入らないな。無理だな」
お腹がつっかえた。面倒になって、ちょっとぎゅうと無理に入れようとしたら、お腹がつっかえて、サクラが口を抑えてモゴモゴしている。これ以上押し込むと口から何かが出そうだ。
仕方なく、斜めがけのバッグの中に入っている収納箱を開け、そこにそっと入れる。
サクラは満足げに入っていった。
一方。
ジャスティはきちんと姿勢を正し、両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
そしてそのまま、自分でふわりと飛び、ヴェゼルのポケットへすっと収まる。
対照的すぎる二柱だった。
ヴェゼルは小さく息を吐く。
「煩くはなかったけど……なんとなく……騒がしかった感じがする」
だが、その声にはわずかな笑みが混じっていた。




