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りんご一個分の収納。マジでどう使えと!? 〜辺境騎士爵に転生したので、なんとか無難な人生を…歩みたいなぁ〜  作者: 大童好嬉


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第603話 図書館長02

古代語の棚に差し込む光は弱く、長い年月に磨耗した頁の縁だけがかすかに白く浮かび上がっている。その静寂の中心で、少年は頁をめくり続けていた。


あの本を読みたい――そう告げたとき、イグニスは内心で首を傾げていた。


あの書物は、いまだ帝国でも解読が進まぬ難物だ。記号は千を優に超え、あるいは二千に届くとも言われる。


学者たちが寄ってたかっても、意味の断片すら拾えぬことも珍しくない。


ましてや、あれは過去にアトゥミカ市国から流出したとも囁かれる代物で、真偽は定かでないにせよ、何百年も前から収蔵され続けてきた“触れてはならぬ類の書”とも言われる。


普通の子供ならば、そこで話は終わる。興味を持つことはあっても、閲覧を望むことなどあり得ない。仮に望んだとしても、断るのが当然だ。


だが――目の前の少年は違った。


妖精を従え、数々の噂の主。名はヴェゼル・パロ・ビック。あのオデッセイの血を引く子。そこまで思い至った瞬間、イグニスの中で“規格外”という言葉が静かに成立していた。


規約はある。貴重書は司書の監視下でのみ閲覧を許可する。それを破るつもりはない。むしろ逆だ――だからこそ、自分の目の前で見せるべきだと判断した。


そして今。


ヴェゼルは、頁をめくる。


その指先に迷いはない。視線は流れるように文字を追い、わずかな停滞もなく次の行へと移る。読み飛ばしではない。精査しているわけでもない。ただ、“読む”という行為を当たり前の速度で行っている。


イグニスは、しばし言葉を発さなかった。


だが、その沈黙の奥で、思考は確かに回っていた。


未知の文字を前にした戸惑いがない。意味を探る試行錯誤もない。推測の痕跡すら見えない。そこにあるのは、ただ理解している者の挙動だけだ。


つまり――


(……読めておるな)喉元までせり上がった言葉を、飲み込む。


あり得ぬ。だが、否定する材料がどこにもない。頁を追う速度も、呼吸の間も、すべてが自然すぎる。


三時間。いや、それ以上か。時間の感覚すら曖昧になるほど、少年は淡々と読み続けている。


イグニスの目が、わずかに細められる。


(なぜ、この子が――)


疑問は尽きない。オデッセイの教育か、それとも別種の才か。あるいは――そのどちらでもない、もっと別の何かか。


だが、そこから先は踏み込むべきではないと、本能が告げていた。


軽々しく触れてよい領域ではない。


ゆえに問わない。ただ、見守る。


ヴェゼルもまた、その視線を感じ取っていた。だが顔を上げることはない。気づいていないのではない。気づいた上で、互いに何も言わぬことを選んでいる。


問いも、説明も、ここでは不要だった。静寂が、再び場を支配する。


古紙の匂い。遠くで誰かが頁をめくるかすかな音。時折、梁が鳴る乾いたきしみ。それらすべてが、この空間を閉じた世界のように保っていた。


そしてその中心で、過去に記された祈りと、今を生きる少年の思考が、静かに交差していた。


やがて。


ヴェゼルの手が止まる。


ゆっくりと頁を閉じ、そのまま数秒、指先を表紙に置いたまま動かない。何かを整理するように、あるいは沈めるように。


それから、顔を上げた。


「……ありがとうございました」


簡潔で、しかし礼を欠かぬ声音。


イグニスはわずかに顎を引くだけで応じる。


ヴェゼルは席を立ち、本を丁寧に戻すと、そのまま出口へと向かう。


途中、影がわずかに揺れ、そこから二つの気配がすっと現れる。従者と共に別行動をしていたのだろう、小さな眼鏡の妖精がぱたぱたと飛びながら戻ってきた。


「すごかったです! とても面白かったです! また来ましょう!」


興奮を隠しきれない声音。周囲の静けさに気づいて、少しだけ声を抑えるが、それでも弾む調子は消えない。


その様子を横目に、ヴェゼルは苦笑をわずかに浮かべる。


そのとき――


もう片方のポケットが、もぞりと動いた。


小さな顔が、眠たげに覗く。


「……お腹減った」それだけ言って、またすぐに引っ込む。


あまりにも対照的な二柱に、イグニスは思わず息を漏らした。笑いではない。だが、口元がわずかに緩む。


少年は軽く頭を下げ、扉へと向かう。


その背に、つい声が出た。


「……あの本は、どうだったかね」


問いは自然に零れたものだった。


ヴェゼルは足を止め、少しだけ考える間を置く。そして答える。


「――面白かったです」


簡潔に、それだけ。


だが、その一言の奥に、どれほどの理解が含まれているのかを、イグニスは知ってしまっている。


再び、静かな足取りで去っていく。


影が遠ざかるにつれ、眼鏡の妖精の声が小さく響く。


「それでですね、あの部分が――」


熱心に語り続ける声。


やがてそれも、扉の向こうに消えた。


完全な静寂が戻る。


イグニスは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。


(……読めていた)


確信が、ゆっくりと形になる。


そして同時に、別の思考が浮かぶ。


あの内容を理解したということは――


誰が、あれを書いたのか。


わからぬことが、多すぎる。


そして、その“わからなさ”の中心に、あの少年が立っている。


イグニスはゆっくりと目を閉じ、こめかみに手を当てた。


静かな書庫の中で。


ただ一人、思考だけが、深く沈んでいくのだった。

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