第599話 帝国図書館04
ヴェゼルはしばし、その本を見つめていた。
埃を被り、時の重みをそのまま纏った装丁。だが、その奥にあるものだけは、彼にとって異質で、そして見過ごせない。
やがて、ゆっくりと踵を返す。
「係の方をお願いできますか」
静かに声を落とすと、広い館内にその言葉はほとんど響かず、しかし確かに届いたらしい。ほどなくして、規則正しい足音が近づいてくる。
現れたのは、先ほど受付の奥から出てきた老司書だった。
石の床を踏みしめるように歩み寄り、ヴェゼルの立つ書架――問題の一角を見た瞬間、わずかに目を細める。
「ほう……そこか」
短く、しかし含みのある言葉だった。
そのまま視線を上げ、ヴェゼルの顔をじっと見据える。
「この文字が、読めるのかね?」
穏やかな口調。だが、その奥には明確な探りがある。単なる興味ではない。長くこの場所を守ってきた者の、警戒と期待が混じった眼差しだった。
ヴェゼルは一瞬だけ間を置く。ほんのわずか。
それから、何も言わずに首を横に振った。
否定は簡潔に。余計な言葉は添えない。
老司書はそれ以上追及しなかった。ただ小さく頷き、書架に並ぶ本へと再び目を向ける。
「この古代語はな……文字の形から推測するに、少なくとも千を超える記号があると見られておる」
ゆっくりと語る声は、講義のようでもあり、独白のようでもあった。
「体系が複雑すぎる。音だけではなく、意味そのものを担っておる節もある。ゆえに、未だ完全な解読には至っておらんのじゃ」
その言葉に、ヴェゼルは内心でだけ頷く。
この世界の文字は単純だ。限られた文字数――二十六といくつか記号を組み合わせ、音を構成する。いわばアルファベットにかなり近い体系であり、一度覚えてしまえば応用が簡単に利く。
だが、日本語は違う。
ひらがなとカタカナという音節文字に加え、意味を持つ漢字が存在する。その数は常用だけでも二千を超え、さらに文脈によって読みが変化するのだ。
単なる記号ではない。
言語そのものが、多層構造を成している。
(……解読できるはずがないよな)
そう結論づけられているのも、無理はなかった。
ヴェゼルは視線を戻し、静かに口を開く。
「中身を拝見したいのですが、よろしいでしょうか」
老司書はすぐには答えなかった。
顎に手を当て、じっとヴェゼルを見下ろす。頭の先から足元まで、値踏みするように観察する。その視線には、年齢や身なり以上の何かを測ろうとする意図があった。
やがて――
「……よかろう」
小さく頷く。
「ただし、ここの区画の書物は条件があるのだ」
そのまま指を一本立てる。
「必ず手袋を着けること。扱いは厳重に。そして――」
わずかに言葉を区切る。
「司書の、わしの目の前で閲覧してもらうのが条件じゃ」
その一言で、距離が定まる。
監視。
明確にそう告げられていた。
ヴェゼルは、わずかに顔をしかめる。
読んでいるところを横で見られる――落ち着く状況ではない。特にこれは、自分にとって“読めてしまう”文字だ。
だが、それ以上に。この本の価値は明白だった。
リョーガやユーガの出身の国。リョーガが持っている日本刀に見られる文化の痕跡。調味料のソイやヒシオと、リョーガは言っていた。そして、この世界に存在するはずのない言語。
見逃す理由がない。
「わかりました」
短く、しかし迷いなく応じる。
老司書は小さく頷き、腰に下げていた鍵束を取り出した。金属同士が触れ合い、乾いた音を立てる。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
かちり、と。
封が解かれる音は、思いのほか重かった。
慎重な手つきで本を取り出す。その動作は、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧で、長年の習慣が染みついているのが分かる。
そのまま閲覧用の机へと向かう。
ヴェゼルは一歩遅れて、その後を追った。
机の上に置かれた本は、間近で見るとさらに古びていた。革の表紙はひび割れ、角はすり減り、ところどころに補修の跡がある。だが、それでも形を保っているのは、どれほど慎重に扱われてきたかの証でもあった。
老司書が差し出す。
「手袋を」
受け取る。
薄手の布製。指先にぴたりと沿う感触は軽く、しかし素手とは明確に違う隔たりを感じさせる。
(直接、触れさせないためか)そう理解しつつ、ゆっくりと指に馴染ませる。
席に着く。
老司書は対面に立ったまま、微動だにしない。
視線が、外れない。ヴェゼルは一度だけ息を整え、そっと本に手をかけた。
ゆっくりと開く。
ぱらり、と。
乾いた、かすかな音。頁がめくられる。
そこに記されていたのは――
紛れもなく、日本語だった。
崩れそうな羊皮紙。だが判読は可能だ。ひらがな、漢字、ところどころに混じるカタカナ。間違いようがない。
ヴェゼルの視線が、わずかに鋭くなる。
外から見れば、ただ古代語を眺めているだけの少年にしか見えない。
だが、その内側では。
意味が、流れ込んでくる。文章として、理解できる。
(……やはり)確信が深まる。
そして、読み始める。
そこに記されているのは、シャムス帝国の成り立ち。
神話とも、歴史ともつかぬ時代。
人がまだ少なく、精霊と世界の境界が曖昧だった頃の記録。
その一行一行を、ヴェゼルは静かに追っていった。




