第597話 帝国図書館02
やがて視界の先に、それは現れた。
バルカン帝国図書館。
神殿を思わせる重厚な石造り。高く掲げられた柱、緻密に刻まれた装飾、扉に至るまで一切の妥協がない。知の集積というより、信仰の対象に近い威圧感があった。
ポケットの中から、ひょこりとサクラが顔を出す。一度だけ見上げて――
「……ふーん」
興味を失ったように引っ込んだ。
対照的に、ジャスティは身を乗り出すようにして空を見上げる。
「すごいです……!」
その声は、抑えようとして抑えきれていなかった。
図書館の重厚な扉をくぐった瞬間、外の喧騒はまるで切り離されたかのように遠ざかった。高い天井に支えられた広間は静謐に満ち、空気そのものが張り詰めている。
磨かれた床の上には足音が柔らかく吸い込まれ、わずかな衣擦れすら目立つほどだった。
入口のすぐ内側、左右には槍を持った兵士が直立している。飾りではない。視線は鋭く、訪れる者を値踏みするように観察していた。
数歩進んだところで、すぐに声がかかる。
「お名前の記入と、保証人の証明書、それに保証金として銀貨五枚をお願いいたします。なお、申告に虚偽があった場合は罰せられますので、ご留意ください」
受付の女性は淡々と告げたが、その声音には規則を一切曲げぬ硬さがあった。
ヴェゼルは素直に頷き、求められるままに手続きを進める。名前を書き、証明書を差し出し、銀貨を五枚置く。その一連の流れの中で、ふと何かを思い出したように手を止めた。
「あの……妖精はいくらになりますか?」
「……はい?」
女性の動きがぴたりと止まる。
一瞬の沈黙。
ヴェゼルは胸元のポケットを軽く触る。
もぞり、と布が揺れ、サクラが顔を出す。眠たげな目で周囲を一瞥し、興味を失ったようにすぐ引っ込んだ。代わるようにジャスティがひょいと顔を出し、きらきらとした目で周囲を見回すと、はっきりと声を上げる。
「図書館に来るのを楽しみにしていました!」
「よ、妖精……!?」
女性の声が裏返る。目を見開き、言葉を失ったまま数秒固まったのち、はっと我に返ったように一礼し、そのまま奥へと駆けていった。
残された空間に、わずかなざわめきが生まれる。兵士の一人が視線だけをこちらへ向け、もう一人は何事もなかったかのように正面を見据えたままだった。
やがて足音が戻ってくる。
先ほどの女性の後ろには、年配の男が控えていた。背筋は曲がりかけているが、目だけは鋭く、長年この場を預かってきた者の気配がある。
状況を一目で把握し、驚きと困惑を同時に浮かべるが、すぐにそれを押し殺すと、近くの規定書へと手を伸ばした。頁をめくり、該当箇所を探す。
「……人間や獣人は銀貨五枚……」
低く読み上げる。
「……妖精は……規定にないな」
しばしの逡巡。だが長くは迷わなかった。
「……無料で良いだろう」
あっさりと結論を出す。
その一言で場の緊張がわずかに緩む。ジャスティは嬉しそうに小さく身を乗り出し、ヴェゼルの胸元でぴょこんと跳ねた。
その後、受付の女性が改めて利用規定の説明を始める。先ほどまでの動揺は消えていたが、どこかぎこちなさが残っていた。
保証金として支払った銀貨五枚――それは決して軽い額ではない。パン一つが銅貨一枚で買えるこの帝都において、銀貨一枚で銅貨百枚だ。
前世の価値観だと、銀貨一枚で五万円程度なのではないだろうか。庶民にとっては一週間以上の生活費に匹敵する金額だろう。
しかも、それは名目こそ「保証金」だが、全額が戻らない。実質的には入場料なのだ。
さらに本の貸し出しとなれば、その負担は跳ね上がる。
「書物の価値にもよりますが、基本的には金貨一枚以上の保証金を日数分いただきます」
金貨一枚――それは銀貨百枚分。庶民が軽々しく手を出せる額ではない。
(……子供が気軽に来る場所ではないな)
ヴェゼルは自然とそう結論づける。
説明はさらに続く。
書物の破損、持ち出し、盗難はいずれも重罪。場合によっては保証人にも責が及ぶ。だからこそ、受付脇には常に兵士が控え、書庫へ続く扉にも左右に兵が立つ。
「館内も巡回しておりますので、本の扱いにはくれぐれもご注意ください」
女性の声は静かだが、その裏にある重みは明確だった。
飲食は禁止。当然火器も持ち込み不可。そして――
「館内では魔法の発動も制限されております」
おそらくは魔道具による干渉だろう。意図的に魔力の流れを抑制しているのが、肌でなんとなく分かる。
筆記用具もまた禁止事項に含まれていた。
「書物の毀損防止のためでございます」
そこまで徹底して、ようやくこの膨大な知識の集積が守られているのだ。
説明を聞き終えたとき、ヴェゼルは改めてこの場所の性質を理解する。
ここは単なる図書館ではない。
帝国の知を管理する――ひとつの“領域”だった。
「ありがとうございます! 大切に見させていただきます!」
ジャスティが勢いよく頭を下げる。
手続きを終え、扉の前に立つ。
重厚な扉の向こうには、帝国中の知が眠っている。
その隣で、胸ポケットがわずかに揺れた。期待に満ちた小さな気配。
ヴェゼルは軽く息を整え、扉に手をかける。
そして――ゆっくりと押し開いた。




