第595話 帝国 皇宮02
そして――あの会議から数週間後。
いつもの部屋。皇宮のさらに奥、外界の気配を完全に遮断した私室には、再び同じ顔ぶれが集められていた。厚い扉は閉ざされ、絨毯は足音を吸い、灯りは柔らかく抑えられている。
その静けさは穏やかさではなく、言葉の重みを逃さぬための張り詰めた静謐だった。
卓の奥には皇帝アネーロが座し、その隣に皇妃エプシロンが微動だにせず控える。
対面には宰相エクステラ、やや離れて第二騎士団長ブルックランズが直立していた。侍女も護衛も排され、余計な気配は一切ない。帝国の中枢だけが、密室に封じられている。
皇帝が視線を上げ、宰相と騎士団長を順に見た。
「……まだ、エリクサーの行方は分からんのか」
低く抑えられた声だったが、その奥には苛立ちが滲んでいた。
宰相エクステラは一歩も動かず、深く頭を垂れる。
「はっ。アヴァンタイムからの報告によれば――第一席就任と同時に、腹心であったセブリングを宮内部の長に任じたとのことでした」
わずかに間を置き、続ける。
「しかし、その数週間後……セブリングは不審死を遂げております」
空気が、わずかに揺れた。
「就任直後、アヴァンタイム立ち会いのもと宝物庫の確認が行われた際には、すでにエリクサーは存在していなかったと報告されております。セブリングは、その責を自身の就任後の発覚と捉え……深く気に病んでいたとのことで」
言葉を選ぶように、慎重に告げる。
「ゆえに……自裁の可能性が高い、と」
皇帝の指先が、卓をわずかに叩いた。
「……他に、進展はないのか」
短い問い。
だが、それに返せる言葉はなかった。
エクステラも、ブルックランズも、ただ深く頭を下げるのみ。
沈黙が落ちる。
それは一瞬のものではなかった。誰もが言葉を探し、だが見つけられず、ただ時間だけが静かに積み重なっていく。室内の空気は重く沈み、灯りの影がやけに濃く見えた。
その沈黙を破ったのは、エクステラだった。
「……帝都に、先ほど密偵が至急の報告を持って参りました」
顔を上げる。
「ゆえに、皆にお集まりいただいた次第にございます。私も、概要は把握しましたが、詳細はまだ聞いておりません」
声は抑えられている。だが、その奥にある緊張は隠しきれていない。
やがて、重い扉が軋むように開いた。
一人の男が入室する。簡素な装束、無駄のない動き。室内に足を踏み入れた瞬間、深く頭を垂れ、そのまま動かない。
「挨拶も名乗りも不要だ。直答を許す」
エクステラが短く告げる。
密偵はわずかに顔を上げ、すぐに視線を落としたまま口を開いた。
「……カルタス・フォン・ヴァンガード辺境伯様が、ビック家に宣戦布告。その直後――フリード・フォン・ビック騎士爵により、即座に討たれました」
言葉が、空気を裂く。
誰も動かない。だが、確実に何かが変わった。
密偵は一度だけ息を整え、続ける。
「さらに、辺境伯嫡子エルティガ殿は……ヴェゼル・パロ・ビック殿により、右手を切り落とされたとのことです」
その瞬間、室内の空気が止まった。
音が消えたわけではない。だが、すべてが遠のいたような、奇妙な静寂が広がる。
皇帝が、わずかに身を乗り出した。
「……なぜ、そのような事態になる」
静かな問い。しかし、その内にある圧は重い。
密偵は喉を鳴らし、言葉を選ぶ。
「辺境伯主催の年次会議にて、魔法および剣術の競技が行われました。その優勝者がヴェゼル殿であり、表彰を担当したのが嫡子エルティガ殿でございます」
一瞬、間を置く。
「その際……賞状を渡すエルティガ殿が、それを足元に落とし、“拾え”と命じたと」
エクステラの眉が、わずかに動いた。
密偵は続ける。
「ヴェゼル殿はそれを無視し、受け取らずに退場しようとしました。これに激昂したエルティガ殿が魔法を放とうとして――」
「……返り討ちか」
ブルックランズが低く呟く。
「はい。極めて短時間の応酬ののち、右手を斬り落とされたとのことです」
さらに、重ねる。
「その直後、エルティガ殿の側近が報復でビック家に向けて魔法を放ち、フリード殿の息女が火傷を負いました。同時にカルタス様が抜剣し、正式に宣戦布告。これに対し、フリード殿が即応し――護衛数十名を含め、瞬時に殲滅したとの報告です」
言葉の一つ一つが、重く落ちていく。
室内の空気が、さらに沈む。
誰も軽々しく口を開けない。密偵は最後に、静かに付け加えた。
「その後、アーバンクルーザー伯爵が即座に介入し、これ以上の戦禍拡大を防ぐべく停戦を取りまとめたとのことです」
報告が終わる。
だが――静寂は戻らない。
それは終わりではなく、むしろ始まりを告げる沈黙だった。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
密偵の報告が終わったにもかかわらず、室内には返答どころか、わずかな衣擦れの音すら起こらない。灯りは変わらず柔らかいはずなのに、その光はやけに冷たく、卓の上に落ちる影ばかりが濃く見えた。
その沈黙の中で、最初に動いたのは皇妃エプシロンだった。視線をわずかに伏せたまま、まるで独り言のように呟く。
「……またもや、ビック家ですのね」
その一言は小さい。だが、室内の誰もが聞き逃さなかった。
教国との戦いにおいて、わずか三名で戦線を勝利に導いた一件。
それだけでも常識を逸していたというのに――今度は、辺境の雄と謳われたヴァンガード辺境伯を、ほとんど一瞬で討ち取ったという。
積み重なる戦果は、もはや“武勲”の域ではない。
理解の外側にある現象に近い。
皇帝アネーロが、ゆっくりと顔を上げた。
「……他には」
低く落とされたその一言に、密偵の肩がわずかに震えた。
ためらいが、はっきりと見て取れる。
「未確認情報ではございますが……」
喉を鳴らし、言葉を押し出す。
「ビック家には、少なくとも聖霊が一柱。そして、妖精が四柱以上存在するとの噂が」
その瞬間、エプシロンの瞳がわずかに見開かれた。
この帝国において確認されている妖精は、遠い過去に一柱のみ。そして、近年はビック家に妖精が一柱いるという噂があっただけだ。
それが、四柱以上とは。常識が、音もなく崩れる。
沈黙が再び降りる。
だが今度は、先ほどとは質が違った。理解が追いつかないことによる空白――その中で、密偵はなお言葉を飲み込めずにいた。
視線が揺れる。
それを見て、エプシロンが静かに促す。
「……まだ、あるのでしょう?」
逃げ場を失ったように、密偵の背がわずかに強張った。
「……これも確証はございませんが」
一度、息を整える。
「ヴェゼル殿の使役する獣魔が……その…ストームフェンリル、そしてノクスパンテラであるとの噂がございます」
空気が、凍りついた。
次の瞬間、ブルックランズの顔色が明確に変わる。
「……馬鹿な」
思わず漏れたその言葉は、否定ではなく、拒絶に近い。
「どちらも……魔物の域ではない。神獣に等しい存在だ」
声は低いが、押し殺しきれていない。
「過去、ストームフェンリルに対し五千の兵が投入され、瞬時に壊滅したと記録されている……ノクスパンテラもまた、対をなす厄災だ」
言葉を重ねるごとに、その異常さが現実味を帯びていく。
軍人として、事実を否定できない。
だが同時に、それを“戦力”として受け入れることもできない。
皇帝が、ゆっくりと額に手を当てた。
「……フリード殿とヴェゼル殿だけでも脅威だというのに……」
指先が、こめかみを押さえる。
「精霊、妖精、さらに神獣だと?」
吐き出すような声だった。
視線が上がる。
「またここでも、ビック家……ヴェゼルか」
問いは誰に向けたものでもない。
「ビック家は、一体……何を目指しているのだ」
その言葉は、もはや疑問というより、確認に近かった。
やがて、視線がブルックランズへと向けられる。
「帝国の総力をもってすれば……対峙は可能なのか?」
軍の長への問い。
だが――
沈黙。
ブルックランズは動かなかった。視線を逸らすことも、否定することもない。ただ、わずかに顎を引いたまま、何も答えない。
否。
答えられなかった。
常に冷徹に戦力を見積もる男が、言葉を失う。その事実そのものが、最も正確な答えだった。
沈黙が、重く落ちる。
その次の瞬間、皇帝の手が卓を強く打った。乾いた音が、室内に鋭く響く。
「ビック家………ビック、フリード、ヴェゼル……!」
抑えきれぬ苛立ちが、そのまま言葉になる。
「いったい、何なのだ……なぜ、どこを見ても、何をやってもその名が出てくるのだ!」
吐き出された声は、怒りというよりも、やり場のない困惑に近かった。
制御されたはずの空間に、わずかな乱れが走る。だが、それも長くは続かない。
やがて、エクステラが深く息を吐いた。
指先でこめかみを押さえ、ゆっくりと目を閉じる。
思考を巡らせても、整理はつかない。
理屈を並べても、現実がそれを裏切る。
残るのは――ただ重さだけだ。
重圧だけが、部屋に残った。
――だが。
当のビック家はといえば。
帝国をどうこうしようなどという大仰な野心もなければ、覇権を握ろうとする意志もない。
むしろ――
「……あれ、なんか増えてないか?」「まあ、いいか」
そんな調子である。
気づけば妖精が住み着き、気づけば神獣まがいのペットが増えて、気づけば精霊が当然のようにそこにいる。
本人たちにしてみれば、招いた覚えもなければ、集めたつもりもない。ただ、なぜか“いる”のだ。
そして何より厄介なのは――
それを、誰も特別なことだと思っていない点にある。
「危なくないのか?」と問えば、「たぶん大丈夫では?」と首を傾げ、「どうしてこうなった」と聞けば、「さあ……?」と本気で考え込む。
結果として。
帝国中枢が頭を抱えるほどの戦力が、当人たちの無自覚のもとで積み上がっていく。
本人たちは至って平穏に、いつも通りに暮らしているだけだというのに。
――そして今日もまた。
どこかで何かが増えているかもしれない、という妙な確信だけが、現実味を帯びていた。




