第594話 帝国 皇宮01
――ブガッティの死から二月ほどが過ぎた頃。
皇宮のさらに奥、皇帝の私室は、外界の気配を拒むように重く閉ざされていた。厚い帳が光を和らげ、磨き込まれた床は足音を呑み込む。
静けさは確かに保たれているが、それは安らぎのためではない。わずかな言葉すら鋭く響かせ、そこにいる者の責任を逃がさぬための静謐だった。
卓の奥には皇帝アネーロが座し、その隣に皇妃エプシロンが静かに控える。対面には宰相エクステラ、やや離れて第二騎士団長ブルックランズが直立していた。
侍女も護衛も排され、余計な気配は一切ない。それだけで、この場がただの報告では済まぬことを物語っていた。
宰相が、低く切り出す。
「ブガッティ殿が亡くなり、アヴァンタイムを魔法省第一席へ昇進させた件は、すでにご承知かと存じます」
皇帝はわずかに目を伏せ、息を吐いた。
「……惜しい男を失った。あの者がいるだけで、この帝国に軽々しく弓を引く愚か者は躊躇していた。帝国の抑止であり、支柱でもあったのに……」
そのまま視線を天井へとやり、続ける。
「魔法の発展にも寄与していた。わしが即位したばかりの頃は、あやつの名声にどれだけ助けられたことか」
わずかな間。
「だが……近年は研究が滞っていたとも聞く。あの暴発といい、老いがあったのかもしれぬな」
視線が戻る。
「それで――新たな第一席、アヴァンタイムはどうだ」
宰相は間髪入れず応じた。
「私が全幅の信頼をもって推薦いたしました。魔法使いとしても研究者としても優秀であり、さらに政治にも通じております」
わずかに声を落とす。
「……差し出がましいようですが、ブガッティ殿はその点においては不得手であられた」
そして続ける。
「加えて、あの者は公には認められてはおりませんが、公爵家の血を引く庶子。血統の面でも、宮中の均衡に資するものと考えております」
皇帝は静かに頷いた。
「叔父上の……庶子か。問題の多い御方ではあったが、魔法の才は確かであった。その血であれば、納得はできる」
その流れを断ち切るように、宰相が言葉を置く。
「……ここからが本題でございます」
空気が、明確に変わった。
「アヴァンタイムが就任後、各所の体制、備品、資金の流れを精査したところ――」
そして周囲を見渡してから目を伏せる。
「魔法省宮内部の宝物庫に保管されていたエリクサー三本のうち、二本が行方知れずとの報告が上がっております」
沈黙が落ちる。
「これはひとえに、私の管理不足にございます。申し開きのしようもございません」
皇帝の目が見開かれ、そのまま鋭く宰相を射抜いた。
「……今まで、何をしていたのだ!」
低い声。だが抑え込まれた怒気が、部屋の温度を一段下げる。
「あれはただの妙薬ではない。国と国の力関係に直結するものだ。“数”はそのまま国力そのもの――」
指先が卓を叩く。
「失われましたで済むものではなかろう!」
皇妃エプシロンが、静かに口を開く。
「エリクサーは、お金で買えるものではありません」
穏やかな声音だが、その言葉は重い。
「この世に十と存在しないとも言われております。精霊や妖精が、長い年月をかけ、自らの魔力と精霊力を練り上げ――時には命すら削って生み出すもの」
わずかに目を伏せる。
「ゆえに、それは単なる回復薬ではなく、“存在そのもの”に価値が宿るのです」
皇帝が続ける。
「我が帝国にあった三本――」
ゆっくりと指を折る。
「ひとつは、遠い昔、この地に留まった妖精が命尽きる前に残したもの。ひとつは滅びた小国より奪い取ったもの……いや、正確には、それを得るために滅ぼしたと言ってよい」
声がわずかに強まる。
「そして最後のひとつは、教国を国家として認めた際の交渉で譲り受けたものだ」
視線が重く沈む。
「それほどの代償を払って得たものが、二本も消えるなど――帝国を揺るがす大事だ。余の座すら脅かしかねん」
宰相は深く頭を垂れた。
「……ブガッティ殿の清廉を疑わなかった、私の落ち度にございます」
その言葉は、ただの謝罪ではない。責任の所在を、静かに一方向へと寄せる響きを持っていた。
だが、皇帝はすぐにはそれに乗らなかった。
しばしの沈黙ののち、わずかに力を抜いた声で言う。
「……公には言えぬがな」
短く息を吐く。
「余もまた、ブガッティには全幅の信頼を置いていた。ゆえに、お前が疑いを持たなかったことを、一概に責めることはできぬ」
その言葉は、赦しではない。
だが同時に、責を一人に押し付けぬという、皇帝としての均衡でもあった。
そして――それゆえにこそ。
この件が、誰一人として逃げ場のない問題であることが、よりはっきりと浮かび上がっていた。
わずかな間を置き、宰相は続けた。
「密偵の報告によれば、生前のブガッティ殿が、ビック領フリード殿の子息――ヴェゼル殿と親交を持ち、エリクサーを譲る旨の話をしていたとする証言がございます」
言葉は静かだったが、その内容はあまりにも重い。
卓を囲む視線が、ゆっくりと交錯する。誰も即座に言葉を返さない。返せば、その瞬間に何かが決定的に動き出してしまうと分かっているからだ。
「もともと、ブガッティ殿がエリクサーを所持していたという噂は、以前より広く流れておりました。アヴァンタイムも、それを聞き及んでいたと」
宰相の声が続くたびに、部屋の空気はわずかに沈んでいく。
皇帝アネーロは沈黙したまま、卓の一点を見つめていた。
思考はすでに幾筋にも分岐している。
それは――個人の所有だったのか。
それとも。
国家の宝を、持ち出したものなのか。
もし後者であれば、それは単なる不正では済まない。
国家そのものの管理責任、ひいては威信に直結するのだ。
だが、どちらにせよ。
答えは、まだどこにもない。
沈黙が、重く落ちる。
やがて、皇帝がゆっくりと口を開いた。
「……まずは、事実を拾え」
低く、押し殺された声だった。だがその一言に、場の全員が背筋を正す。
「ブガッティ殿が持っていたとされるエリクサーを探せ。そして、ヴェゼル殿に譲ると言われていた件、その流れも辿れ」
言葉は簡潔だが、その内実は重い。
人のつながり、過去の取引、発言の断片――すべてを拾い上げねばならない。
「同時に、ブガッティ殿以外に関与した者がいないか――徹底的に洗うのだ。これは最優先事項だ」
一瞬、間が置かれる。
その間に含まれていたのは、“最悪”の想定だった。
単独ではない可能性。
すでに外部に流出している可能性。
あるいは――意図的な操作。
皇帝の視線が、ゆっくりと一同を貫いた。
「これは極秘だ。国外に漏れれば、余計な火を呼ぶ」
火種は、すでにある。
だが、それを炎にするかどうかは、この場の判断にかかっていた。
宰相と騎士団長が、深く頭を下げる。
「はっ」
短い応答。だが、その裏には、事の重大さを十分に理解した覚悟があった。
再び、静寂が戻る。
だがそれは、先ほどまでの静けさではない。
命令が下され、歯車が回り始めたあとの――
逃れようのない現実が、ゆっくりと広がっていく沈黙だった。
その場にいる誰もが理解していた。
これは単なる調査ではない。
帝国の根幹に触れる可能性を孕んだ、“選別”の始まりなのだと。




