第592話 帝都のバネット商会
応接間のソファに腰を下ろした瞬間、張り詰めていた空気がふっとほどけた。
柔らかなクッションが体を受け止め、旅の疲れがじわりと表へと滲み出てくる。
灯りは穏やかで、室内にはかすかに香が焚かれており、その落ち着いた匂いが神経の奥を緩めていった。
アプローズも先ほどまでの強張った面持ちは消え、ようやく人心地ついたように息を整えている。
その静けさを破ったのは、ヴェゼルの胸元だった。
衣服の内側から、ひょこ、と小さな頭が顔を出す。
サクラである。
周囲をぐるりと見回すと、挨拶も儀礼もまとめて省略するように口を開いた。
「おじいさん、ご無沙汰! っていうか、私お腹が空いたの。何か食べさせて!」
一切の遠慮がない。むしろ清々しいほどだった。
続いて、もう一つの小さな影がふわりと空へと浮かび上がる。ジャスティである。
彼女は静かにテーブルへ降り立つと、きちんと姿勢を整え、丁寧に一礼してから言葉を紡いだ。
「私は土の妖精ジャスティと申します。現在、ヴェゼル様にお世話になっております」
そこで一度言葉を切り、ほんのわずかに表情を緩める。
「あの……私も空腹を覚えております。何かいただいても、よろしいでしょうか」
あまりにも対照的な二柱に、場の空気がわずかに和らぐ。
ベンティガは喉を鳴らして笑い、扉の傍に控えていた侍女へと声をかけた。
「皆、旅で疲れておろう。軽くつまめるものでもよい、何か持ってきてくれ」
侍女は一礼し、音もなく部屋を後にする。
その後、フリードが淡々と経緯を語り始めた。ヴァンガード辺境伯領での襲撃、そしてアクティが負った火傷のこと。
言葉が重ねられるごとに、ベンティガの表情はゆっくりと曇っていく。
「……そうか」
低く、押し殺すような声だった。
まだ見ぬ孫に会う日を、彼は楽しみにしていた。その孫が重い火傷を負ったと聞かされれば、心が沈むのも無理はない。
「儂にできることがあるなら、遠慮はいらん。何でも言うてくれ」
静かに差し出されたその言葉には、確かな重みがあった。
そのときだった。
ヴェゼルの足元、影がわずかに揺らぐ。
もぞり、と。
ヴェゼルは諦めたように息を吐いた。
「……おじいさん、すいません。うちのペットを紹介します」
言葉と同時に、影が形を変える。
にゅるり、と二つの影が床へと滲み出し、そのまま実体を伴って現れた。
ルドルフとシャノンである。
さすがにベンティガも一瞬だけ目を見開いたが――
次の瞬間には、腹の底から笑い声を響かせていた。
「はっはっはっは! 妖精に加えて、今度は猫と魔物か! いやはや、さすがオデッセイの息子じゃわい!」
驚きよりも面白さが勝ったらしい。
シャノンが一歩前に出て、気軽に手を上げる。
「悪いけどさ、俺たちも腹減ってんだけど」
隣でルドルフが、こくりと無言で頷いた。
ベンティガはすぐに扉へ視線を向ける。
「おい、追加を頼む」
先の侍女が戻る前に、別の者が呼ばれ、慌ただしく駆けていく。
場の空気はすでに、奇妙な賑やかさを帯び始めていた。
やがてフリードは、さらに踏み込んだ話を続ける。
教国のクルセイダーと風の妖精が魔物を焚きつけ、ビック領を襲撃してきたこと。それを撃退し、根を断つために教国へ侵入し、総主教と風の精霊を排除したこと。
そして――
「ストーンフェンリルとノクスパンテラが、ヴェゼルのペットになった」
何気なく告げられたその一言に、ベンティガの眉がわずかに跳ねる。
「……それは、もはや魔物というより神獣ではないか」
思わず漏れた本音だった。
その呟きは、当然のようにルドルフとシャノンの耳にも届いている。
二匹は顔を見合わせると、同時に胸を張った。
誇らしげに。
なぜか、やたらと誇らしげに。
話はさらに続き、辺境伯の寄り親会議における競技会、そしてその表彰式の最中に起きた襲撃へと及んだ。穏やかだった空気は、そこに至って再びわずかに引き締まる。
だが――
「エスパーダ殿がおったおかげで、一命は取り留めた」
フリードのその一言が、場の緊張を静かにほどいた。
ベンティガは深く息を吐き、背もたれにわずかに身を預ける。
「……そうか。それはよかった」
短い言葉だったが、胸の奥に沈んでいた重石がようやく外れたような響きがあった。
やがて話題は自然とビック領の近況へと移る。ルークスやステリナが変わらず務めを果たし、領が安定していることを伝えると、ベンティガの表情は目に見えて和らいだ。
「それは何よりじゃ」
穏やかな声でそう言い、満足げに頷く。
そして空気は、今度は実務へと流れていく。
フリードが腕を組み、やや真面目な顔で口を開いた。
「皇帝に今回の件を報告したい。面会を取りたいんだが、どうすればいい?」
問いは簡潔だったが、その背後にある重みは軽くない。
ベンティガは即座に頷いた。
「問題なかろう。バネット商会は皇室御用達じゃ。明日の朝には手紙を届けさせよう」
あまりにも自然で、手慣れた返答だった。
フリードは素直に頷き、「助かる」と一言だけ返す。そして、さて書くか、とでも言いたげに思考を巡らせ――
ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと、視線がヴェゼルへと向く。
嫌な予感しかしない。
次の瞬間、フリードは迷いなく両手を顔の前で合わせた。
「ヴェゼル、頼む! 文章を書いてくれ!」
躊躇がなかった。
ヴェゼルは一瞬、何も言わずにその姿を見つめる。
「……自分で書いた方がいいんじゃないですか?」
静かに返すが、その声音にはすでに諦めが滲んでいる。
しかしフリードは、まったく揺るがない。
「無理だ。時候の挨拶だの、尊敬語だの謙譲語だの……考えただけで頭が痛い。領でもな、普段はオデッセイが全部書いて、俺は署名だけなんだ」
妙に胸を張って言い切った。
誇るところではない。
ベンティガが横で苦笑する。
「それは……まあ、らしいのう」
あまりにも的確な評価だった。
ヴェゼルはしばらく沈黙し、やがて小さく息を吐く。
逃げ場はないと悟った顔だった。
「……わかりました。俺が書きますけど」
一度だけ視線を上げる。
「貸しひとつですからね」
その言葉に、フリードはにかっと笑い、大きく頷いた。
その様子を横目に、サクラがぽつりと呟く。
「文章くらい自分で書きなさいよね」
もっともな意見だった。
だがその声は、ちょうど運び込まれてきた料理の香りにあっさりと飲み込まれる。
温かな湯気とともに広がる匂いが、空腹という現実を容赦なく思い出させ、場の空気を再び賑やかなものへと引き戻していった。




