第590話 聴取04
その時だった。ガヤルドが前に出て、フリードの肩に手をかけた。
「待てと言っている!」
フリードの動きが止まる。ゆっくり振り返り、「あ?」と低く声を漏らした。その一音だけで空気が変わった。
ガヤルドの手がわずかに固まり、周囲の兵士たちは反射的に剣の柄へ手を添える。それほどの圧が、そこにはあった。
その緊張を破ったのはヴェゼルだった。
「これって、まだ任意の聴取の状態ですよね?」
落ち着いた声に、兵士たちが顔を向ける。
「僕たちを拘束する法的根拠はあるんですか? 任意なら、もう質問にも答えました。普通、拘束するなら書面がありますよね。この帝国でも。あるなら見せてください」
論理を並べられ、兵士もガヤルドも言葉を返せない。
やがてヴェゼルは肩をすくめて言う。
「じゃあ、聴取にも応じたので帰らせてもらいます」
誰も止められない。
そこでヴェゼルは、ふと思い出したように兵士へ視線を向けて言う。「ところで、アプローズさんも同じですよね?」その言葉に、周囲の兵士たちの顔へ一斉に苦い色が浮かんだ。
「嫌疑があるだけで拘束の根拠はない」
ヴェゼルはさらりと続ける。
「今日は一緒に泊まる予定なので、すぐ連れてきてください」
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
その時だった。フリードが一歩前へ出て、低く言った。
「おい」
それだけで兵士たちの背筋が伸びた。詰所の空気が一瞬で張りつめる。
フリードは兵士たちをゆっくり見回しながら続けた。
「すぐにアプローズさんを連れてこないと、どうなるか俺は知らんぞ? いいかお前らに伝えたからな?」
そう言ってポケットから銀の何かを取り出す。小さなメダルだった。だが、それを見た瞬間、兵士の一人が息を呑み、詰所を仕切っていた隊長格の男の顔色が変わった。
「……直参の……」
フリードの声が低く響き、指先でメダルを軽く弾く。
「俺は確かに辺境の貧乏騎士爵の貴族だ。だがな、この帝国で皇帝陛下に断りなく直答を許されている唯一の貴族でもある」
その言葉に空気が凍る。
兵士たちの脳裏に、いくつもの噂がよぎっていた。初代皇帝からの唯一の直参の貴族。サマーセット領との戦争で百の兵で五千を破ったという話。
教国との戦争では、たった三人で敵地へ攻め込み勝利したという話。
さらに、その戦のあと敵国であるはずの教国から救国金勲章を授けられたという話まである。
どこまでが本当なのか分からない。だが、その男が今、目の前に立っているのだ。
隊長は一瞬の逡巡のあと、すぐに声を張り上げて部下へ命じた。
「おい! す、すぐアプローズ殿を連れてこい!」
若い兵士が慌てて走っていく。
その背を見送りながら、後ろでガヤルドが不満そうに言った。
「なぜだ! あんなメダル如きで――」
だが隊長は小声でそれを遮った。
「……ガヤルド様。ここはそれ以上触れない方が……」
ガヤルドは不満げに鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
しばらくして扉が開き、アプローズが兵士に連れられて戻ってきた。顔は憔悴していたが歩く足取りはしっかりしており、少なくとも怪我の様子はない。どうやら暴力は振るわれてはいないらしい。
フリードは一瞥して軽く頷く。
「無事そうだな。行こうか」
短い一言だった。
ヴェゼルとフリードはそのまま踵を返し、ヴェゼルはアプローズの手を取って、共に詰所の出口へ向かおうとする。兵士たちは誰も止めようとはしなかった。
そヴェゼルが振り返ったその時、ひょこっと、ヴェゼルの胸ポケットから小さな顔が覗いた。
サクラだった。そしてその隣から、もう一つの小さな顔が現れる。ジャスティである。
二人の妖精は周囲をきょろきょろ見回し、小さな体をポケットの縁に乗り出すようにして詰所の中を見渡した。兵士たちの視線がこちらへ向いているのを確かめると、サクラがにやりと悪戯っぽく笑う。
次の瞬間、小さな手で片方の目の下をぐいっと引き下げ、白目をむくようにして舌をぺろりと突き出した。
あっかんべーである。
隣のジャスティも負けじと身を乗り出し、両手で頬を押し広げるようにして顔をぐにゃりと歪めると、同じように舌をべろっと出した。
小さな舌が左右にぴょこぴょこと揺れ、二柱の妖精はまるで悪戯が成功した子供のように得意げな顔をしている。
その様子はあまりにも堂々としていて、しかも無駄に可愛らしい。
詰所の中にいた兵士たちは、ぽかんと口を開けたまま固まった。次の瞬間、誰かが引きつった声を上げる。
「よ、妖精だと!?」
「それも……二柱!?」
サクラはまだ舌を出したまま、ふんっと鼻を鳴らすように腕を組み、ジャスティも小さく胸を張って、まるで「どうだ」と言わんばかりの顔をしていた。
兵士たちの顔が一斉に引きつり、ガヤルドまでもが目を見開いていた。
ヴェゼルは軽く肩をすくめる。
そのとき、彼の影の中が、もぞもぞと動いた。
黒い影の奥から、ルドルフとシャノンが顔を出そうとしている。
ヴェゼルはそれに気づくと、歩きながら小さく呟いた。
「だめだよ」
影の中で二つの気配が、しょんぼりと引っ込む。
もし今、さらにルドルフとシャノンが出てきたら、詰所は確実に大騒ぎになる。さすがにそれは面倒だった。
背後ではまだ兵士たちのざわめきが続いている。
だがフリードは、その声などもう気にもしていなかった。
腕を組み、顎をさすりながら考えているのは、まったく別のことだった。
――さて。
帝都は広い。
だがこの時間から泊まれる宿屋が空いているとは限らない。
「……宿、探さねぇとな」
フリードはぼそりと呟いた。
ついさっきまでの聴取や騒ぎなど、すでに頭の中から半分ほど消えている。
そうしてフリードたちは、アプローズを連れて詰所を後にしたのだった。




