第585話 帝都への旅11
そんな話をしていた直後だった。
街道の先で、草むらががさがさと揺れた。次の瞬間、低い唸り声のようなものが重なり、土の上をばたばたと小さな足音が走る。
現れたのは、緑色の肌をした小柄な魔物の群れだった。
粗末な棍棒や欠けた刃物を振り回しながら、ばらばらの隊列で街道へ飛び出してくる。
ゴブリンだ。しかも一匹や二匹ではない。ざっと見ただけでも数十はいる。道の脇の藪から次々に顔を出し、歯を剥きながらこちらへ向かってくる。
フリードはすでに少し前から察していたようだった。手綱を軽く引いて馬を止めると、ちらりと群れを眺めてから肩をすくめた。
「たいした魔物じゃないが……普通の旅人だったら、ちと不味そうだな」
そう言ってから、横目でヴェゼルを見る。
「どうするヴェゼル。お前がやるか?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴェゼルの影がゆらりと揺れた。
次の瞬間、影の中から二つの黒い影が弾けるように飛び出す。
「ウォンッ!」「ニャッ! いくぜ! デカ犬!」
ルドルフとシャノンだった。二匹は迷いなく一直線にゴブリンの群れへ突っ込んでいく。
ルドルフは地面を蹴るたびに砂を巻き上げ、その巨体のまま群れの中央へ跳び込んだ。
衝突した瞬間、ゴブリンが数匹まとめて宙を舞う。
棍棒を振り上げていた一匹は、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
一方のシャノンは、低く滑り込んで小さな体でゴブリンの足元をすり抜け、その喉元に牙を突き立て、次の瞬間にはもう別の個体の背へ跳び移っている。
悲鳴と鈍い音が、短く何度も重なった。戦いというよりは、ほとんど一方的な蹂躙だった。
ルドルフが前脚を振るえば、ゴブリンが吹き飛ぶ。シャノンが影を走れば、その背後で数匹が崩れ落ちる。
数十いたはずの群れは、あっという間に崩れた。時間にすれば、せいぜい一分ほどだっただろうか。
やがて静かになると、血に濡れた地面の上を、二つの影が軽い足取りで戻ってくる。
二匹は嬉しそうに尻尾を振りながら、ヴェゼルの前でぴたりと止まり、まるで褒めてほしいと言わんばかりに頭を差し出してくる。
だが――その姿は、かなりひどかった。二匹とも全身が血でぬめっている。
ルドルフの背中には、どこから引っ掛けてきたのか、何かの臓物らしきものまでぶら下がっていた。
ヴェゼルはそれを見て、思いきり顔をしかめる。
「……ちょっと、ルドルフ。シャノン、汚いから、川かどこかで洗ってきなよ」
二匹が「褒められる」と思って尻尾を振る。
「クォン?」「ニャ?」
「きれいにしないと、俺の影に入っちゃダメだからね」
サクラとジャスティも二匹を怪訝な顔で見ている。
その一言で、二匹ははっとしたように互いを見た。そして次の瞬間、同時にくるりと向きを変える。
どうやら、さっき通ってきた道の途中で川を見かけたのを覚えていたらしい。
ルドルフが先頭に立ち、シャノンがその後ろを追う。
二匹は勢いよく街道を駆け戻っていった。それを見送りながら、フリードが小さく笑う。
「随分と躾がいいじゃないか」
「躾というか……あのまま影に入られると、あとが大変なんですよ」
ヴェゼルはため息まじりに答えた。血と臓物の匂いが残る街道を見渡し、フリードは「まあ仕方ないな」と言って馬を降りる。
「どうせすぐ戻ってくるだろう。後片付けがてら、少し休憩にするか」
結局、その場で一度足を止めることになった。
フリードが体を動かしたいから俺に任せろ、という声を聞きながら、恐縮するアプローズを尻目にヴェゼルは会話を続けた。
二人の距離は、道中をともにするうちに、最初に会った頃に比べればだいぶ縮まっていた。
はじめは互いにどこか探るような会話だった。言葉を選び、様子をうかがい、踏み込みすぎない距離を保つ――そんな空気が自然と漂っていたのである。
だが街道を進み、休憩を挟み、また歩を進めるという単調な旅路が続くうちに、そうした堅さはいつの間にかほどけていった。
道の長さと同じだけ会話も積み重なり、気がつけば雑談のような話題も増えていた。
年齢の話になったのは、そんな流れの中だった。
最初に聞いたとき、アプローズは少しだけ口元を緩めて言った。
「秘密です」
それ以上は答えない、という軽い笑い方だった。ところが、しばらく他愛もない話を続けているうちに、ふとした拍子に彼女は言ってしまった。
「来年はついに大台なんですよね……」
その瞬間、ヴェゼルが「あれ?」という顔をする。
するとアプローズもすぐに自分の失言に気づいたらしく、「あ……」と小さく声を漏らして口を押さえた。
だがもう遅い。
計算するまでもない。来年で二十ということは、今年は十九歳ということになる。
ヴェゼルがそのことを指摘すると、アプローズは少しだけむっとした顔をして言った。
「今のは忘れてください」
そう言いながらも、それ以上誤魔化そうとはしなかった。
どこか不器用で、妙に素直なところがある。ヴェゼルとしては、そういうところがむしろ親しみやすかった。
見た目の印象は、最初に感じた通り、どこかクールで落ち着いている風を装っていた。
言葉遣いも穏やかで、自分のことを「僕」と呼び、余計な感情をあまり表に出さない。
魔法の話をしているときなどは特にそうだった。
ブガッティがヴェゼルを認めていることを知っているからか、最初のうちはかなり丁寧な敬語で接してきていたし、言葉の選び方や思考の筋道にも、研究者らしい理知的な雰囲気があった。
ただ、話しているうちに、ヴェゼルは一つ気づいたことがあった。
アプローズはどうやら、意識して少年のように振る舞っている節がある。
実際のところ、その外見は「少年」というには少し無理があった。
身長はそれほど高くなく、肩幅も細い。普段はローブを羽織っているので体つきは分かりにくいが、馬に乗り降りする仕草や歩き方を見ていると、体の線はどうしても女性らしい柔らかさを帯びている。
フードを被っていれば中性的な少年にも見えるが、それを外して顔を見れば印象はかなり変わった。
顔立ちは整っていて、しかもかなり童顔だ。
目元は柔らかく、肌も白い。本人がどれだけ落ち着いた態度を取っていても、少し見れば「ああ、これは女の子だな」と分かる程度にははっきりしている。
ただし、本人はどうやら、その部分をあまり強調されたくないらしい。
ローブのフードは基本的に深く被っているし、仕草もどこか意識して抑えているように見える。言葉遣いも「僕」を通しているあたり、少なくとも外からは男の子のように見られたいのだろう。
ヴェゼルもその空気は察していたので、わざわざそこを突っ込んで聞くことはしなかった。
理由があるのかもしれないし、単に本人の好みなのかもしれない。どちらにしても、まだ踏み込んで詮索するほどの関係ではない。
それよりも、会話していて面白かったのは、アプローズの性格の方だった。
外から見れば、かなり落ち着いた人物に見える。
話し方も丁寧で、言葉も理知的で、いかにも「研究者の弟子」といった雰囲気がある。
だが、時々ふとしたところで妙な発言が混ざるのだ。
たとえば魔法の話をしているときも、理論の説明をきちんと組み立てて話していたと思えば、途中で急に「あ、でもそれは師匠が勝手にやっていただけで、普通は危ないからやらないほうがいいんです」と付け加えたりする。
あるいは説明の途中で、ふと首を傾げて言うのだ。
「あれ? 今の説明、少しおかしかったかもしれません」
本人は真面目に話しているつもりなのだろうが、その抜け方がどこか天然めいている。
落ち着いた雰囲気と、時折見せるそうした素の反応の落差が、妙に面白かった。
ヴェゼルも最初はただ聞いているだけだったが、いつの間にか軽く突っ込みを入れるようになっていたし、アプローズもそれに少し困った顔をしながら応じるようになっていた。
気づけば、最初の頃のぎこちなさはほとんど消えていた。長い街道を進むうちに、二人の間には、自然な会話が流れるようになっていたのである。
フリードも一度、そんなやり取りを横で聞いていて、小さく笑っていた。
そして何より、アプローズは魔法の話になると目の色が変わる。
元魔法省の人間であり、しかもブガッティの弟子だというだけあって、魔法そのものへの興味がかなり強いらしい。
ヴェゼルがどんな魔法を使うのか、どういう理論なのか、どんな感覚で発動しているのか――そういう話題になると、自然と身を乗り出してくる。
「ヴェゼルさんの魔法って、どういう構造なんですか?」
何度も聞かれた。
ただし、ヴェゼルの方はその質問に、はっきりとした答えはあまり返していない。
旅の途中でもあるし、アプローズが悪い人物ではないことは分かる。
むしろ、ここまで話してきた限りではかなり誠実で、信用できそうな性格だった。
それでも――まだ出会って間もない相手だ。
これから彼女がどんな立場で、どんな道を選ぶ人間なのかは分からない。魔法の内容まで詳しく話すには、少し早い気がした。
だからヴェゼルは、質問を受けるたびに、曖昧に笑って答えをぼかす。
理論の話を少しだけして、肝心なところはぼかす。
するとアプローズは「うーん……」と悩む顔をしながらも、それ以上は無理に聞こうとはしなかった。
そんなやり取りを繰り返しながら、三人は帝都へと続く街道を進んでいく。
気づけば会話も途切れず、道中の空気は、最初の頃よりずっと柔らかくなっていた。




