第580話 帝都への旅06
まだ森の空地に残る血の匂いが、湿った風に混じって漂っていた。
倒れたオークたちの巨体が散乱し、踏み荒らされた地面には折れた枝や抉れた土が入り混じる。その中心に、巨大なオークキングの死体が横たわっていた。
ヴェゼルはその前に立ち、軽く手をかざす。次の瞬間、巨体はゆらりと歪み、まるで空間に飲み込まれるかのように消えた。収納箱に収められたその様子を、アプローズはまだ号泣しながら見ていた。
肩を震わせ、嗚咽を漏らす。必死に声を押し殺そうとしても、泣き声が漏れ、涙が次々と頬を伝う。先ほど魔法を振るっていた凛々しさは、今のその姿からは想像できないほど崩れていた。
フリードがその様子を見て、戸惑いながらヴェゼルに視線を向ける。小さく身を寄せ、声を潜めて言った。
「おい、ヴェゼル……お前の名前を聞いた途端に泣き出したぞ? 何かやったのか?」
ヴェゼルは首を振る。
「いえ、全く身に覚えはありません」
帝都へは以前訪れたことがあるが、このローブの人物に会った記憶はない。
まだぐすぐす泣いているアプローズの方へ、ヴェゼルは慎重に歩み寄る。
「ええと……」
声をかけようとした瞬間、アプローズは突然膝をつき、ヴェゼルの前に身を落とした。
そのままぐいと腰に手を回し、思い切り抱きつく。
「うわっ」
胸に顔を埋めたまま、アプローズは再び泣き出す。肩が震え、嗚咽が漏れ、涙が次々と溢れる。
「……ヴェ、ヴェゼル…………」
ヴェゼルは完全に固まっていた。周囲の空気も、湿った土と血の匂いの中で、静かに二人を包んでいるようだった。
ヴェゼルはとりあえず、なすがままにされながら、ぽんぽん、とアプローズの頭に手を置いた。子供をあやすように、軽く頭を撫でてやる。
アプローズは肩を震わせ、嗚咽を漏らしたまま、しばらく泣き続けた。森の中には、ローブの人の泣き声だけが響いている。
やがて、ようやく泣き止んだアプローズが、ぐい、と身体を離した。
そして――ぐいぐいぐい、と自分の顔をヴェゼルのお腹に押しつける。涙、鼻水、よだれ、全部まとめて服で拭いた。
ヴェゼルの服はあっという間にアプローズの体液でびしょ濡れになり、妙な光沢まで放ち始める。普通なら大騒ぎになるところだが、ヴェゼルは静かに諦めた。毎日のようにサクラのよだれや体液を浴びているので、もう慣れていたのだ。
とりあえず気を取り直し、ヴェゼルは姿勢を整える。
「お聞きかもしれませんが」
そう言って軽く頭を下げた。
「俺はヴェゼル・パロ・ビックです。そしてあれが父のフリード・フォン・ビックです」
フリードが軽く手を上げる。
ヴェゼルは改めてアプローズを見る。
「あなたは誰ですか?」
アプローズはまだ涙声だったが、虚勢を張って答える。
「ぼ、僕は……アプローズ」
鼻をすすりながら続ける。言葉が震えている。
「魔法省第二十席の……ブガッティ様の最後の弟子で……師匠からの遺命で、ヴェゼル様に届けろと言われたものを……託されて……」
フリードが怪訝そうな顔をした。
「ブガッティ殿の遺命?」
アプローズは必死に涙をこらえながら頷く。
「そうだ……いえ、です」
そして震える声で言った。
「師…ブガッティ様は数週間前に……魔法の実験の失敗ということにさせられて、お亡くなりになった」
その言葉を聞いた瞬間、ヴェゼルは絶句した。
ブガッティ――魔法省第一席、孫以上に歳の離れたヴェゼルの友であり、ヴァリーの師匠でもあった人。
胸の奥がきしむ。
だが、その言葉の中に一つ引っかかるものがあった。
ヴェゼルは静かに聞く。
「……実験の失敗ということにさせられた?」
その瞬間、アプローズの顔が歪む。再び涙が溢れ、嗚咽をこらえながら言う。
「魔法実験の失敗でそれが暴走してお亡くなりになったと、公式にはされたけど……あれは……帝国宰相のエクステラ様と、魔法省第二席のアヴァンタイム様……いや、アヴァンタイムが何かしたんだと思う」
アプローズは震える手で懐を探り、小さな箱を取り出した。丁寧に作られた上質な小箱だった。両手で差し出す。
「ブガッティ様が……雪解けの後に……これをビック領のヴェゼル様に……休暇がてら届けてほしいって……」
涙を拭いながら続ける。
「きっと僕にも、ビック領へ行けば有益な魔法の勉強になるからって……」
ヴェゼルは静かに箱を受け取った。
アプローズは言う。
「このエリクサーを……ヴェゼル様に渡してほしいと……」
ヴェゼルはゆっくりと蓋に触れる。アプローズの声は震えていた。
「師匠……ブガッティ様が……ヴェゼル殿には、もう会えないだろうから、僕に託すと……」
そこでまた、アプローズは泣き出した。
ヴェゼルは箱を見つめ、あの時を思い出す。
サクラが言ったのだ。宝珠は、エリクサーがあれば作れる、と。
ブガッティは笑って言った。「ならばそれを、友情の証として譲ろう」
その約束を――覚えていてくれたのだ。
ヴェゼルは箱を静かに握りしめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。




