第578話 帝都への旅04
旅は、そのまま続いた。
街道は、ときに森の影へと潜り、ときに果ての見えない草原へと抜け、なだらかな丘をいくつも越えながら帝都へ向かって延びている。道はよく踏み固められているが、人影はそれほど多くない。
遠くで荷馬車が軋む音が聞こえることもあれば、半日ほど誰ともすれ違わないこともあった。
ヴェゼルとフリードは、その道を急ぎすぎることもなく、しかし決して歩みを止めることもなく進んでいた。
基本は、馬が疲れるまで走らせ、頃合いを見て休ませる。その単純な繰り返しだ。だが長旅とは、結局のところそういう積み重ねで距離を稼ぐものだった。
昼は陽光の下を進み、夕方には野営地を探す。ヴェゼルの収納箱には、旅に必要なものがほとんど収まっている。
食料、水、簡素な調理道具、簡易テント、厚手の毛布――どれもが収納箱の奥に整然と収められており、必要な時には瞬く間に取り出せた。
野営の準備は、慣れてしまえば驚くほど早い。平らな地面を選び、石をどけ、焚き火の場所を決める。テントを立て、馬を繋ぎ、水桶を用意する。
わずか二十分もかからず、小さな野営地が形を整えていた。
夜は静かに更けていく。焚き火の赤い炎が揺れ、遠くで夜の獣の声が響く。二人は簡単な食事をとると早めに眠りについた。
そして翌朝――
まだ空が白み始めたばかりの頃、フリードはすでに起きていた。
草原には薄い朝霧が漂い、夜露を含んだ草が足元でかすかに音を立てる。遠くの森の向こうから、ゆっくりと朝日が昇ろうとしていた。
フリードは剣を抜く。静かに構え、ゆっくりと振る。
ヒュン――空気を裂く鋭い音が、冷たい朝の空気に響いた。
派手な技ではない。ただ基本の斬撃を繰り返すだけだ。だが踏み込み、腰の回転、重心の移動――すべてが無駄なく噛み合い、剣は重く鋭く振り下ろされる。
一振り。また一振り。
朝霧の中で、剣の軌跡だけが鋭く動いていた。その様子を、テントの入口からヴェゼルがぼんやり眺めていた。
(……やっぱり父さん、真面目すぎるだろ)起き抜けでまだ頭がぼんやりしているのに、父はすでに鍛錬を始めている。
ヴェゼルは軽く伸びをしながら立ち上がった。
「朝から剣ですか」
「身体が鈍るからな。旅の途中だからこそ、動かしておく」
フリードはそう言いながら剣を振り終え、ゆっくりと鞘に収める。
ヴェゼルも父に倣って何気なく身体を動かす。
軽く足を踏み替え、腕を流すように回し、重心を崩す動き。それを見たフリードが足を止めた。
「それだ。お前、たまにやっているだろ。その妙な体の使い方。この前の試合でも使っていたな」
ヴェゼルは少し笑う。
「前世の武術です。体術というか、剣を使わない戦い方ですね」
「面白そうだな。俺にも教えてくれ」
フリードは肩を回しながらそう言った。
「覚えておいて損はないからな」
ヴェゼルは少し考えてから頷く。
「じゃあ、試してみますか」
そう言って少し離れた場所に立つ。
「まずは簡単なのから。ちょっと押してみてください」
フリードが力を込めて腕を引いた瞬間だった。
ヴェゼルは半歩身体をずらす。力の流れを横に逃がし、腕を絡め、肩を入れる。
次の瞬間。ドサッ。
フリードの身体が地面に転がった。朝露に濡れた草がわずかに揺れる。
「……ほう。今のは?」
「柔道っていう武術です。力をぶつけるんじゃなくて、相手の力を利用して投げるんです」
「なるほどな。もう一度やってみろ」
フリードはそう言いながら手を握ったり開いたりして、さっきの感触を確かめていた。
二人は向き合う。フリードが掴みに来る。
その瞬間、ヴェゼルは手首を軽くひねり、体の軸を崩す。関節を極める。
「こうやって関節を固定すると――」
ぐらり。フリードの身体が自然に崩れ、そのまま地面へ転がる。
フリードは立ち上がり、しばらく動きを思い返していた。
「面白いな。もう一度」
次の瞬間だった。フリードが掴みに来る。だが今度は、ヴェゼルが動く前にフリードの身体がわずかに回った。
「……え?」
ヴェゼルの重心が崩れる。ドサッ。
地面に転がったのはヴェゼルの方だった。
「こういうことだろう。力を真正面で受けない」
フリードは肩を回しながら言う。ヴェゼルは呆然とした。
「……もう覚えたんですか?」
「大体な。剣を持っていない時にも使える」
そう言って今度はヴェゼルの腕を取る。ぐい、と関節が決まった。
「待って待って待って!」
ヴェゼルが慌ててタップする。フリードが手を離す。
「合っていたか?」
「……合ってます」
ヴェゼルは地面に座り込み、父を見る。(いやいや……)
普通は一度見ただけで理解できるものじゃない。柔道も合気道も、本来は長い時間をかけて身体で覚えるものだ。
それをフリードは、数回の動きを見ただけでほぼ再現してしまった。(やっぱこの人、武術の天才だ……)
ヴェゼルは乾いた笑いを漏らす。フリードはどこか楽しそうに言った。
「いいな、これ。もう少し教えろ」
ヴェゼルは苦笑する。「はい」
空を見ると、太陽がすでに森の上に顔を出していた。
朝霧がゆっくりと消えていく。馬が草を食みながら鼻を鳴らした。
「そろそろ飯を食べようか」
ヴェゼルは頷いた。朝の鍛錬を終えた二人は、焚き火を起こし、ようやく朝食の準備を始めたのだった。
そして、また道中馬を進める。その日は、これと言って何もなく、無事に夕方に野営することにした。
乾いた薪がぱちりと弾け、橙色の火がゆらゆらと揺れる。その光は地面の草を淡く照らし、周囲の闇をほんの少しだけ遠ざけていた。
そして、その火の近くには、必ずルドルフとシャノンがいた。
二匹は、まるでそこが自分たちの定位置であるかのように、焚き火のそばに伏せる。ルドルフは巨体を丸め、静かに周囲を見渡し、シャノンは尻尾をゆったりと振りながら火を眺めている。
その姿があるだけで、森の空気がわずかに変わる。
遠くで魔物の遠吠えが聞こえることはある。夜の森には常に何かが潜み、獣の影が草を揺らす。しかし、それらがこの野営地へ近づいてくることはほとんどなかった。
気配だけは感じる。だが一定の距離で止まり、やがて遠ざかっていく。
焚き火の光の外側には深い闇が広がっている。それでも、この小さな円の内側だけは、妙に穏やかだった。
そのため夜は比較的静かで、旅人としてはずいぶんと恵まれた環境だった。
そこから数日ほど進んだある日、街道の脇に川を見つけると、二人は自然と足を止めた。
川は森の端を縫うように流れている。水は澄み、底の小石が透けて見えるほどだった。流れは早すぎず遅すぎず、陽光を受けて細かな波紋がきらきらと輝いている。
「ここで休ませるか」フリードが言うと、ヴェゼルも頷いた。
まずは馬を川辺へ連れていき、ゆっくりと水を飲ませる。長旅で乾いた喉を潤すように、馬は鼻先を水面に近づけ、静かに水を吸い上げていった。
その後で鞍を外す。革紐をほどき、重たい鞍を持ち上げると、馬の背には汗がうっすらと浮いている。ヴェゼルは布を取り出し、その汗を丁寧に拭き取った。
布が背をなぞるたび、馬は気持ちよさそうに鼻を鳴らす。耳がぴくりと動き、尾がゆっくりと揺れた。
「よく頑張ってるな」
フリードも同じように馬を世話しながら、ぽつりと言う。
馬の手入れが終わると、今度は人間の番だった。
ヴェゼルとフリードは川辺に腰を下ろし、水を掬って顔を洗う。冷たい水が額を流れ、頬を伝い、顎からぽたぽたと落ちる。
布を濡らして首筋や腕を拭うと、肌に残っていた汗と埃が流れ落ち、体の奥まで染みてくるようだった。
旅をしていると、こうした小さな水場が何よりありがたい。
川の流れは絶えず音を立てている。さらさらとした水音が耳に心地よく、風が草原を渡ってきて、濡れた肌をそっと撫でた。
遠くの森では葉がざわめき、青い空には薄い雲がゆっくりと流れている。
その穏やかな時間の中で、ヴェゼルがふと呟いた。
「……風呂に入りたいですね」
ぽつりと落ちた言葉に、フリードは思わず笑う。
「帝都まで我慢だな」
「ですよね……」
ヴェゼルは苦笑しながら、もう一度顔に水をかけえ、布を浸し、体を拭く。それだけでもだいぶ気持ちが良い。ジャスティは川縁で興味深そうに覗いている。
サクラは今日は収納箱にいる。また、ゴロゴロと寝転がり、お菓子を頬張っているのだろうか。川面は陽光を反射し、無数の光の粒を散らしている。
風が草原を渡り、その向こうの森の木々をゆっくりと揺らしていた。帝都への道は、まだ長い。
馬の歩みに合わせ、休みながら進み、夜には火を囲む。そんな日々を積み重ねながら、二人の旅は少しずつ、確実に帝都へ近づいていく。
その歩みは派手ではない。だが、確かな重みを持って続いていた。




