第513話 魔法の競技会の開始07
競技会の空気は張り詰めていた。ヴェゼルは事前にロンシャンを呼び、周囲に聞こえないように静かに言った。
「ロンシャン君、俺は左の的を狙う。君は右を狙えばいい。そうすれば、決勝は二人で競えるよ」
ロンシャンは短く頷いた。それを確認した後、ヴェゼルは話を続ける。
「ただし、もし誰かが先に的を撃ったら、その時は二人で速さを競おう。これだけは決めておこうね」
ヴェゼルの言葉には、万が一に備えた計算が含まれていた。
同じ頃、セコイアとエルティガも、ひそやかに何かを相談している。ラングラーとコーティナは、特に動くこともなく、ただ静かに立っていた。
司会者が声を張り上げる。
「これより、魔法競技会の事実上の準決勝を開始します。合図とともに、的に向かって魔法を放ってください。先に的を射た者二人が、決勝に進出します」
選手たちは構えを取り、手に魔力を集め始める。しかしヴェゼルは動かない。棒立ちのまま、視線だけを的に据えていた。
「はじめ!」
司会の掛け声と同時に、五人は一斉に手を突き出し、詠唱を始める。
ヴェゼルは宙を見据え、ただ静かに立っていた。
合図も、詠唱もない。
何もしていない――そう見えるその佇まいに、観客席がざわめく。
ヴェゼルは一度、短く息を整えた。彼が見ていたのは、的でも、距離でもなかった。
空間そのものだ。空気は空虚ではない。
見えぬだけで、水分も、塵も、熱も――無数の要素が常に満ちている。
「――詳細鑑定」
呟いた瞬間、空気中の成分が把握される。
その中から、空気に溶け込んだ微細な水分だけを選び出し、収納箱へと集束させていく。
水分子一つひとつの位置と密度、そして――振動の状態。分子は静止していない。常に揺れ、回り、伸び縮みしている。
液体として存在できるのは、その振動が互いに釣り合い、結合を保っているからに過ぎない。
ヴェゼルは、その釣り合いだけを読み取った。
ここまで、一秒もかかっていない。
それは水魔法と呼ぶには、あまりに地味で、あまりに静かな操作だった。集められた水は、弾にも、刃にもならない。
ただ――
収納箱から取り出され、左の的のわずか手前。
空間に「置かれた」。
開始から、二秒。
次の瞬間、ヴェゼルは小さく呟く。「――共振位相」
彼が変えたのは、形でも、位置でもない。水分子の振動条件そのものだった。分子の振動が揃えられ、液体としての安定を支えていた自由度が、一斉に奪われる。
熱を与えたわけではない。温度を上げたわけでもない。
ただ――
水でいられる理由を、消した。液体は、その形を保てなくなる。
分子間結合が崩れ、状態は一気に遷移する。水が、水であることをやめる。
液体から気体へ。
その刹那、体積は理屈の上では千倍以上へと跳ね上がる。逃げ場を持たぬ膨張は、爆発ではない。
圧力そのものが、そこに生まれる。
轟音はなかった。
火花も、衝撃波もない。
だが次の瞬間――
的の目前で空間が歪み、瞬時に生じた圧力に内側から叩き潰されるように、的は支えの杭ごと爆散し、白い霧となって散った。
三秒。
まるで、空気そのものが殴られたかのようだった。観客には、何が起きたのか分からない。
何も飛んでいない。何も触れていない。
それでも、確かに的は破壊されている。ヴェゼルは、すでに視線を下げていた。
彼の中には、成功も失敗も存在しない。
ただ――
「条件を満たせば、結果は起きる」
それだけだった。
魔法の発動から終結まで、五秒にも満たない出来事だった。
遅れて十秒ほど後、ロンシャンの土魔法が右の的に命中する。ヴェゼルの速さが圧倒的であったのに対し、ロンシャンもまだ未就学児としては卓越した速さで的の中心を射抜いていた。
エルティガもセコイアもラングラーもコーティナも、途中で詠唱を破棄し、自らの敗北を悟る。観客席からは、歓声が一気に沸き起こった。
ここで審判がヴェゼルとロンシャンが勝者だと司会者に告げ、司会者が高らかに、ヴェゼルとロンシャンの名前を宣言した。
ヴェゼルは呆然とするロンシャンに近づき、右手を上げてハイタッチをしようとする。だがロンシャンは、自分が決勝に進めるとは思わず、完全に呆然としており、手を挙げたヴェゼルに気づかなかった。
苦笑しながら、ヴェゼルはロンシャンの右手を掴み、自分の手に合わせてハイタッチの形を作る。ようやくロンシャンが状況を理解し、二人は力強く手を合わせた後、ロンシャンは喜びのあまりヴェゼルに抱きつく。
「ありがとう!ヴェゼル君!君がいなかったら、決勝にだって来られなかったよ!」
ヴェゼルは少し照れながらもロンシャンを離し、穏やかに言った。
「うん、決勝でも頑張ろうね」
一方、エルティガはヴェゼルとロンシャンを鋭く睨みつけ、呟く。
「平民風情に、俺が負けるとは……」
セコイアは苛立ちを隠せず、責任転嫁のように呟いた。
「やつら、何か魔法具でも使ったんじゃないのでしょうか? あまりにも速すぎます……」
そのとき、ラングラーとコーティナが二人に近づいてきた。ラングラーは普段は顰めっ面なのだが。この時ばかりは微笑み、ヴェゼルたちに声をかける。
「二人とも圧倒的だったな。特にヴェゼル殿は。それにロンシャン殿も素晴らしい。明日はヴェゼル殿も剣術の競技会に出るのか?」
「はい、出るつもりです」
ヴェゼルが答えると、ラングラーはにやりと笑い、肩を軽く叩いた。
「剣術では負けないぞ」
そう言い残して去っていく。
コーティナも笑顔を見せ、言葉を続けた。
「二人ともすごかったわ!私もこの年では、できる方だと思っていたけど、上には上がいるのね。明日は私も剣術の競技に出るから、お互い頑張りましょう」
二人は清々しい雰囲気のまま去っていった。
ロンシャンはまだ、自分が決勝に出場できるとは信じられず、驚きの表情を浮かべている。ヴェゼルは観客席を指さした。ロンシャンの家族が喜び、手を振っているのが見えたのだ。
「家族の元に行ったら?」とヴェゼルが声を掛けると、ロンシャンは笑って答えた。
「決勝が終わってから行くよ」
そして二人は控室へ戻りながら、静かに話す。
「決勝は頑張ろうね。ヴェゼル君には勝てるとは思わないけど、ここまで来たんだから、全力を出すよ」
ヴェゼルは微笑み、ロンシャンと並んで会場を後にした。
分子を描写しました。。
あくまでも雰囲気です。想像です。妄想です。
実際の科学?化学?あまり深くは知りませんので、
雰囲気でお読みくださいませ。




