第487話 朝市の出会い03
朝市をひととおり堪能したフリード一行は、名残を惜しみつつも宿屋へ戻ることにした。もっとも、来た道をそのまま引き返すのは少々味気ない。
「せっかくだ、少し遠回りして帰ろうか」
そんな軽い一言から、まだ覗いていない通りへと足を向けることになる。別の道に入ると、並ぶ露店の顔ぶれも変わり、先ほどとは違う賑わいがあった。
アクティはセリカと手を繋ぎ、あれこれ指差しながら楽しそうに歩いている。だが、市の中心から離れるにつれて、次第に空気が変わっていった。
人の流れは細くなり、笑い声も遠のく。往来もほとんど途絶えかけた、その市の端とも言える一角で、彼らの足取りは自然と緩んだ。
そこにいたのは、無骨な男と、十代半ばに届くかどうかという年頃の子供だった。二人は道の脇に腰を下ろし、周囲に客の気配はまったくない。
男は三十代ほどに見える。伸び放題の髪に、手入れの行き届いていない身なり。旅の途中なのか、それとも行き場を失っているのか、判然としない風体だった。
隣に座る子供は、ひどく華奢で痩せ細り、青白い顔を長い前髪が半ば隠している。その姿には、年相応の活力というものが感じられなかった。
――親子、だろうか。
二人の前には筵が敷かれ、その上に、棒状の物がいくつも並べられていた。木切れにしては妙に揃い、道具にしては用途が分からない。
その光景を目にした瞬間、ヴェゼルは、思わず足を止めていた。
――いや、正確には、目が離せなくなった。
「これは……日本刀?」思わず呟きの声が漏れる。近づいて、はっきりと分かる。
「刀……?」
その言葉に、むさ苦しい店主の男が目を見開いた。
「おっ! これが分かるのでござるか?」
驚きと喜びが入り混じった声だった。
子供も顔を上げ、じっとヴェゼルを見る。顔を上げる子供を見ると意外に色が白く整った顔をしている。ヴェゼルの様子に、フリードたちも自然と足を寄せてくる。
「ヴェゼル、何を見ているんだ?」フリードが近づいてきた。
すると店主の男は、今度はフリードへと視線を移し、その場でふっと息を呑んだ。
「……ほう」
低く漏れたその声は、意図せず出たという響きを帯びており、次いで続いた言葉には、隠しきれない感嘆が滲んでいた。
「この地にも……これほどの剣豪がおられるとは」
ほとんど独り言のような呟きだったが、距離の近さもあって、確かにヴェゼルの耳にも届いている。
市の喧騒から、ほんの一歩だけ切り離されたその筵の前で、周囲の空気がわずかに張り詰めたのを、彼ははっきりと感じ取っていた。
「これ……売り物なんですか?」
店主の男は一度だけ頷くと、並べられた刀身を順に指し示しながら、淡々と答えた。
「長い方が金貨十枚。短い方が金貨五枚でござる」
その瞬間、ヴェゼルは内心で小さく息を吐く。朝市の価格としては、どう考えても場違いだ。
この値段では、冷やかし半分の客が手を伸ばすことすらないだろう。(……金貨十枚って、感覚的には……)頭の中で、つい前世の感覚に引きずられて換算する。こちらだと、百万円前後、といったところだろうか。
長いのは太刀、短いのは脇差――そう判断するのが自然だが、どちらも幅が広そうで、かなり重そうだと外見だけでもわかる。見た目も、実戦向きのようで、安物や飾り物とは明らかに違っていた。
(……これ、本物だよな)興味を抑えきれず、ヴェゼルは視線を男に戻す。
「少し……触って、抜いてみてもいいですか?」
一瞬の間ののち、店主の男は小さく頷いた。
「構わぬよ」
許しを得て、ヴェゼルは立ち上がり、短い方――脇差を手に取る。
ずしり、と掌に伝わる重みは、脇差としては明らかに異質で、むしろ野太刀に近い荒々しさを感じさせた。
「……みんな、少し離れて」念のため周囲に声をかける。
端の市の中とはいえ、刃を抜く以上、最低限の配慮は欠かせない。距離が取られたのを確認してから、ヴェゼルは深く息を吸い、意識を刀へと沈めていく。
思い出すのは、フリードから叩き込まれた剣だ。そして、前世で断片的に見聞きした居合の構え。それは貴族や騎士が良しとする、型通りで洗練された美しい剣ではない。
フリードの教えと通ずる生き残るための剣。相手に間合いを悟らせるな。初太刀に、すべてを込めろ。
その言葉を胸の奥で反芻しながら、ヴェゼルは半身になり、腰を深く落とした。剣を体の後方へと引き、あえて刃先を相手に見せない構え。視線だけを前に残し、そこから一気に踏み込む。
抜き様に薙ぐ。
刃が空を裂き、鋭い風切り音が、わずかに遅れて耳を打つ。
一連の動きを終えたあと、ヴェゼルはほんの一瞬だけ迷い、どうしても試してみたかった構えを取った。
それは理屈でも実戦でもなく、ただ「刀を手にしたなら、一度はやってみたい」という、前世の記憶に根ざした憧れそのものだった。
右手で刀を大きく振り上げ、その柄に左手を添える。右足を前に、左足を後ろへと引き、腰を深く落とし、全身の重心を低く沈める。
剣先は天を突くように真上へ向けられ、刃は空を指し、自然と背筋が伸びた。
――理屈で言えば、あまりにも変形で、隙も多い構えなのだろう。実戦的かどうかなど、正直なところヴェゼル自身にも分からない。
それでも、刀を握ったのなら、一度はやってみたかったのだ。
一拍の静止ののち、地を蹴る。
溜め込んだ力を一気に解放するように体ごと踏み込み、初太刀にすべてを乗せて刀を振り下ろした。空気が裂け、風が唸り、刀が描いた軌跡だけが、強く視界に焼き付く。
最後にやはり刀の重さに幼い体がついていけず、剣先がブレたが、少なくとも、この刃が持つ本来の力は、十分に引き出せたはずだった。ヴェゼルは残心を保ったまま呼吸を整え、やがて慎重に刀を鞘へと収める。
その直後だった。
「――な、なに……!」
店主の男の顔が、驚愕という感情のまま、完全に固まっている。
「それは……それは、我らが流派の……!」
言葉にならない声で、店主の男はヴェゼルを凝視していた。
(……あ)
背筋に、嫌な予感が静かに這い上がる。
フリードと毎日剣の鍛錬をしていれば、剣術に興味を持つのは自然な流れだ。そして出会ってしまった、刀に。しかもここは、剣と魔法の世界。そこで刀を見てしまえば、興奮しない方が無理というものだ。
――とはいえ、だ。
後先を考えずにやった。完全に、勢いだけで踏み込んだ。これはもう、何かを越えたとしか言いようがない。
視線を横へやると、エスパーダが無言のまま、じっとこちらを見つめていた。その目は、責めるでも呆れるでもなく、ただひたすらに重い。
(……後で絶対、何か言われるな)間違いない。確定事項だ。
一方で、フリードはというと――
「……おお」
思わず漏れたその一声とともに、彼の表情はみるみる明るくなっていった。それは権力者でも、貴族でもない。
新しい剣技を目の当たりにした少年のような、純粋で屈託のない輝き。立場も、面倒も、先の影響も、そこには一切ない。
ただ剣を振る息子を見て、率直に感心し、素直に胸を躍らせている――父親の顔だった。
「今の、かっけぇな!」そう言ってから、思い出したように顎に手を当てる。
「そういや、お前が鍛錬の時に、たまに妙な構えで剣を振ってただろ。剣先を立てて、踏み込みがやけに鋭いやつ」
フリードは楽しそうに笑った。
「なるほどな。あれは、その“刀”ってやつの型だったのか。普通の剣じゃ、しっくり来てなかったわけだ」
まるで長年の疑問が腑に落ちた、と言わんばかりの納得ぶりだった。
「いやぁ……ああして見ると、ちゃんと理由があったんだな。悪くない、どころか――かなりいいぞ!」
その評価に、ヴェゼルは内心で嬉しさよりも先に、別の意味で胃が重くなる。(見てたんだ……しかも、ちゃんと覚えてたのか……)
父親としての観察眼が、今ほど恐ろしく感じられたことはなかった。
その一言で、ヴェゼルは内心、そっと天を仰いだ。
――ああ、これは。
完全に、やってしまったやつだ。
後になって振り返られ、「俺、やっちゃいました?」と処理される、よくあるアレである。
それでも――と、どこかで強く思う。
仕方ないじゃないか。
だって、刀が、そこにあったのだから。
見たら触りたくなる。
触ったら抜きたくなる。
抜いたら構えたくなる。
構えたら――振るしかない。
前世日本人、しかも男の子である以上、これはもはや抗えない衝動なのだ。ましてや、今は完全に子供の体だ。
そもそも修学旅行を思い出してほしい。男子中学生、京都土産は何を買う?
八つ橋? それもある。
だが、真っ先に男子の手が伸びるのは、どこにでも売っている木刀だ。
そして、さすがに木刀を買って帰ると母に怒られるのは目に見えている。だから仕方なく選ぶのが、木でできた刀もどきの安っぽい模造品。あるいは刀のキーホルダー、最悪、刀っぽい形をした傘ですら候補に入る。
(これは全国共通の通過儀礼だったよな……?)
(俺だけじゃないよな……?)
心の中で必死に誰かの同意を求めながら、ヴェゼルは現実へと意識を戻す。
視界の端では、店主がいまだ硬直したままこちらを見つめており、その表情は驚愕というよりも、常識が一段階ずれてしまった人間のそれだった。
エスパーダの視線は相変わらず重く、フリードはまだ満足そうに頷いている。
――うん。
これはもう、今さら引き返せない。
きれいさっぱり、逃げ道は消えていた。
見事なまでに。
お! ついに「俺、やっちゃいました?」的な?
こういうのがそうなのかな?
多分、そう……なんだと思います。違うのかな?
途中からヴェゼルの刀に関してのヤラカシた心の葛藤が……。




