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第419話 最後の晩餐02

そして食事の後も、部屋の中は最後の夜を惜しむように、わいわいとした声が途切れることはなかった。


杯が触れ合う音や、誰かの大げさな笑い声が壁越しに伝わり、施術院全体がまだ旅の途中にあるかのような錯覚を覚えさせる。


そんな喧騒を背に、ヴェゼルはそっと部屋を抜け出し、施術院の庭へと足を運んだ。


雪はもう積もるほどではない。だが柵の脇や建物の陰には、白く溶け残った名残が点々と残り、夜気にさらされて鈍く光っている。


庭は決して広くはないが、その中央には一本だけ、やけに存在感のある大木が立っていた。夜の静けさを抱え込むように、どっしりと根を張っている。


ヴェゼルはその根元に立ち、自分の薬指にはめた指輪に、そっと触れた。


冷たい金属の感触は、触れるたびに現実を突きつけてくる。それは失った証であり、同時に、まだ手放せていない証でもあった。


ヴァリーのことは、決して忘れていない。


むしろ逆だ。ふとした拍子に、常に頭の片隅にいる。言葉の端々、判断の瞬間、夜の静けさの中で、不意に思い出す。


――けれど。


死んだ、と言い切るには、まだ早すぎた。


心のどこかで、彼女が「いない」という事実を、きちんと受け止め切れていない自分がいる。数ヶ月しか経っていないのだ。整理できていないのは、弱さなのか、それとも当然なのか、ヴェゼル自身にもわからなかった。


だからこそ、こうして報告することを、ずっと躊躇っていた。言葉にした瞬間、本当に終わってしまう気がして。


それでも今夜は、どうしても伝えなければならないと思ったのだ。


ヴェゼルは木を見上げ、吐息を白く滲ませながら、ようやく口を開く。


「……ヴァリーさん。これが正しいことだったのかは、正直、今でもわからない」


答えが返るはずもないのに、言葉は自然と零れる。


「でも……とりあえず、仇……は討ったよ」


それは誇りでも、達成感でもなかった。ただ、約束を果たした、という事実だけが、そこにあった。


短い沈黙のあと、枝葉の隙間から、スプラウトなのか、ほんの小さな光がひとつ、ふわりと瞬いた。それは気まぐれのように揺れながら、夜空へ溶けるように昇っていき、やがて見えなくなる。


――気のせいかもしれない。


そう思おうとすれば、簡単だった。


それでも、胸の奥に溜まっていた何かが、ほんの少しだけ解けた気がした。


「……ずいぶん静かな報告会だな」不意に背後から声がする。


振り返ると、そこにはフリードが立っていた。足音も気配もなく、いつの間に来たのかさっぱりわからない。フリードはぽん、とヴェゼルの肩に手を置く。


「ヴァリーさんに、か?」ヴェゼルは素直に頷いた。


「はい。……いつも頭にはあるんです。忘れてなんかいません。でも……」


言葉を選ぶように、一拍置く。


「まだ、整理がつかなくて。自分や周囲の生きている人のことで精一杯で……だから、報告も、ちょっと後回しになっていた気がします」


指輪に触れた指が、わずかに止まる。


「亡くなった、って言い切ってしまうのが……怖かったんだと思います。報告したら、本当に終わってしまう気がして」


フリードはすぐには何も言わなかった。ただ、肩に置いた手に、少しだけ力を込める。


「罰当たりだな」


「自覚はあります。でも……だから、今夜、こっそり来ました」


フリードは一瞬きょとんとし、それから小さく息を吐いた。


「そういうところが、お前らしい」


ヴェゼルは苦笑しながらも、木から視線を外さない。


「忘れてるわけじゃないんです。ただ……生きている人を優先しないと、前に進めない。そうしないと、ヴァリーさんにも、顔向けできない気がして」


「なるほどな」フリードはそれ以上、踏み込まなかった。


夜の庭には、再び静けさが戻り、枝葉がわずかに風に鳴った。


ヴェゼルはもう一度だけ木を見上げ、一拍置いて、ヴェゼルはぽつりと付け足す。


「今の婚約者が二人……正確には、三人ですけど」


フリードは一瞬固まり、それから盛大に吹き出した。


「お前なぁ……亡くなった相手まで数に入れるか?」


「入れますよ。抜いたら、怒られそうじゃないですか」


「墓前から飛んできて説教されそうだな」


二人して苦笑する。


フリードは少し間を置き、どこか照れ隠しのように言った。


「はじめは確かに憤りがあった。だが、人をこれだけ殺しといて不謹慎かもしれんがな……今回の騒ぎ、正直、楽しかった。魔物も多かったし、久々に血が騒いだ。若い頃の冒険者時代を思い出した」


「母さんと一緒の時の?」


「ああ」即答だった。


その迷いのなさに、ヴェゼルは少しだけ視線を逸らす。


「……じゃあ、ソニアさんには、どう言うんです?」


フリードは一瞬だけ言葉に詰まり、頭を掻いた。


「好意を向けられるのは、ありがたいし、嫌いじゃない。だがな……俺には、母さんがいる。それだけだ」


「即答じゃないんですね」


「即答すると怒られそうだからな」


「誰に?」


「主に、俺の良心にだ」


わざとらしく深いため息をつき、フリードは続ける。


「それにだ。奥さんを何人も持つのは、大変だぞ? きっとな……」


ヴェゼルは、待ってましたとばかりに、にやりと笑った。


「まぁ、現時点で俺、婚約者が二人。先ほども言いましたが、正確には三人ですからね」


「……“現時点”って言い方が怖いんだが……」


「未来は未定ですよ」


「開き直るなよ」


フリードは呆れたように笑い、ヴェゼルの背中を少し強めに叩いた。


「よし。そろそろ戻るか。あいつら、騒ぎすぎてるからな」


「ですね。これ以上あの騒ぎが続いたら……色々と増えそうですし」


「何がだ」


「主に、ややこしい関係が」


「やめろ」


並んで歩き出し、二人は再び施術院の中へと戻っていった。


その夜、施術院の灯りが消えることはなかった。


深夜になっても笑い声は途切れず、それは旅の終わりを惜しむ音のように、静かな夜へと溶けていく。


――最後の夜は、そうして、穏やかに更けていった。


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