閑話 アトミカ教02
初代教皇カミアの即位は、祝祭としてではなく、静かな断絶として記憶された。
歓声も、喝采もなかった。
彼女は聖座には座らず、その前に立ち、群衆を見下ろすことも、仰ぎ見ることもなく、ただ正面を向いて言葉を紡いだという。
光も、火も、水も、風も、土も、聖も、そして闇も――
それらは選ぶための力ではない。
裁く刃ではなく、世界を照らし、温め、潤し、運び、支え、守り、そして受け入れるために在るのだと。
光は進むべき道を示すが、影を消してはならない。
火は信念を燃やすが、異なるものを焼き尽くしてはならない。
水は命を潤すが、形を奪い、溺れさせるものであってはならない。
風は言葉を運ぶが、思想を一つに縛ってはならない。
土は秩序を形作るが、命を押し固めてはならない。
聖は理想を掲げるが、選別の名で切り捨ててはならない。
そして闇は――拒絶の象徴ではなく、受容のために在る。
その七つは、本来、対立するものではなかった。
循環であり、重なり合う位相であり、満ち引きのように形を変える流れだった。
分けられたのは、神の都合と、人の恐れに過ぎない。
それは、世界の本質ではない。
彼女はこの思想を示す名として、聖座とこの地を「アトゥミカ」と名付けた。
後世の神学者たちは、この名に壮麗な意味を与えた。
曰く、Atumは原初。
曰く、Mi-kaとは古聖語において、「それに等しき者は誰であろうか」という問いを示す語幹である。
Mikaとは、原初に比肩し得るものは存在するのか――
その問いそのもの。
すなわちアトゥミカとは、原初(Atum)と、それに等しきものを求め、選び取ろうとする問い(Mika)、その緊張を内包した聖名である、と。
それは答えを示す名ではなく、原初を前にしてなお、人が問い続けるための名。
理解と誤解、受容と選別、その分岐点に据えられた座である――
神学はそう結論づけた。
やがて体系は完成する。
七属性――光・火・水・風・土・聖・闇は独立した力ではなく、アトゥミカ的循環における位相の違いに過ぎない、と。
光は、世界を分かち、選び、正しさを定義しようとする力。
火は意志、水は感情と生命、風は言葉、土は記憶、聖は理想、闇は受け止めきれぬものの器。
そして、それらすべてを内包し、循環させる中心概念こそが、アトゥミカ。
あまりにも整いすぎた解釈。
あまりにも正しく、美しい体系。
だが、そのどれ一つとして、初代教皇カミアがその名を口にした理由には辿り着いていない。
アトゥミカ。
それは原初でも、循環でもない。
その名は、神学から生まれたものですらなかった。
ただ、彼女が人であった頃に抱いていた記憶。
隣で笑っていた誰かの声。
何気ない時間の中で、ふと口にされた、意味のない響き。
冗談のようでいて、なぜか胸に残った名。
それを忘れなかった。
忘れられなかったからこそ、聖なる名として掲げた。
彼女は言った。
この地は、どの王のものでもなく、どの血統のものでもなく、どの剣のものでもない。
信仰を誇る者の地でもなく、恐怖から祈る者の避難所でもない。
意思への覚悟を持つ者のための場所――
照らし、燃やし、潤し、揺らし、支え、守り、そして受け入れることから逃げない者のための場所だと。
だが、アトミカ教はやがて変質する。
聖は選別の名を帯び、正しさは裁きへとすり替えられ、水は清めの名で管理され、闇は排されるべきものへと追いやられていった。
はじめの教義は忘れられ、物流と数多の情報の中心地へと変容した。
それでも、名だけは残った。
アトゥミカ。
誰もが聖なる響きだと信じ、誰一人として、それが――
誰かが誰かを愛した、その証だとは気づかなかった。
そして、その名を真に理解する者が現れるとき、再び問いは立ち上がる。
選別か、受容か。
それは最初から、神の問題などではない。
人が何を恐れ、何を切り捨て、何を濁らせてきたのか――
その問いに過ぎなかったのだから。




