閑話 アトミカ教01
それは、国のように見えて、国ではない。
少なくとも――自らを国家と名乗ったことは、一度もなかった。
正確には、どの国にも属さぬよう、意図的に切り取られた場所である。
大地に杭を打ち、血で境界を刻んできた王国や帝国とは異なり、そこは信仰という概念だけで線を引かれた空間だった。
バルカン帝国、トランザルプ神聖教国、フォルツァ商業連合国、ビート・ドワーフ王国…他――幾多の国々の緊張線が交錯する、そのわずか外側。
どの国の地図にも属さず、しかし、どの国の外交文書からも消されることはない場所がある。
交易路は蜘蛛の巣のように張り巡らされ、物と金、そして噂が昼夜を問わず流れ込む。
しかし、その中心に、荘厳な教会建築があり、そして隣接するように――信仰とはあまりに不釣り合いな、巨大な倉庫群が無骨な影を落としている。
祈りの鐘が鳴るその下で、馬車が列をなし、帳簿がめくられ、封印符が貼られた箱が積み上げられる。
聖職者の祈りと、荷役人の掛け声が、同じ空気を震わせていた。
ここには軍は、存在しないという建前がある。
王の法も、皇帝の勅も、この地では紙切れ同然だ。代わりに支配するのは、信仰と契約、そして「流通」。
アトミカ教は、収納魔法を持つ魔法使いたちを見逃さなかった。
彼らは「祝福された才能」と呼ばれ、保護と地位、そして信仰の名の下に、この地へ迎え入れられる。
だがそれは同時に、囲い込まれることを意味していた。
彼らの役割は明確だった――物流の担い手。
物資を収納し、運び、必要な場所へ正確に吐き出す。
祈りの合間に倉庫を巡り、聖印を刻んだ箱を管理し、教会の許可証と共に物を流す。
戦争を避けたい国も、関税を嫌う商人も、密輸を合法へと変えたい者も、最終的に辿り着くのはこの都市だった。
倉庫と流通、そして、その魔法使いたちの手を経なければ、大陸規模の交易は成立しない。
結果として、アトミカ教は剣を持たずして、物流網を――ひいては世界経済を支配した。
物が動く限り、情報も、金も、逆らえない。
『軍を持たぬ』という建前の理由は、そこにある。
国土は、わずか一キロ四方にも満たない。
だがその中には、大陸全土の命脈が、静かに収納されていた。
それでも、この地は世界から無視されることがなかった。
「聖なる中立」を掲げて生まれた都市――サンクタ・アトゥミカ市国。
正門をくぐった瞬間、空気が変わる。
音は吸い取られ、言葉は自然と軽くなり、人は知らず声を潜める。
それでも馬車の軋む音、荷箱が擦れる音、帳簿を叩く指の音だけは、妙に生々しく響いていた。
舗道の石は磨き抜かれ、そこを通った無数の足跡と轍は、祈りと労働が等価であった証だ。
都市の中心には大聖堂がそびえ、その影の下で、倉庫の扉が静かに開閉を繰り返す。
鐘が鳴れば祈りが始まり、鐘が止めば取引が再開される。
聖なる時間と実利の時間が、ここでは同じ一日の中に共存していた。
アトミカ教に軍隊は存在しない――それが公式見解である。
だが教義を守る名の下に武装し、倉庫と聖堂の双方を巡回するテンプル騎士団の姿は、誰の目にも明らかだった。
この都市は、自らを国家とは呼ばない。
それでも外の世界は、そう扱わざるを得ない。
世界で最も小さく、世界で最も多くの祈りと荷を受け入れ、そして最も静かに、人の生死と運命を左右する場所。
――神は、ここに住んでいるわけではない。
だが人々は信じている。
神の声と、人の欲が、最も近くで溶け合う場所が、ここなのだと。
静かで、清らかで、荘厳で、そして、恐ろしいほどに現実的な都市。
それが、宗教と物流が同じ呼吸をする場所――
サンクタ・アトゥミカ市国である。
そして、その中心。
白光の神殿にして、教義の起点。
――アトミカ教聖座。
初代教皇の名は、カミア。
彼女は、生涯に一度として聖座に座らなかった。
白い石で組まれた段の最下段に立ち、群衆を見下ろすことも、見上げることもせず、ただ正面を向いて言葉を紡いだという。その姿をもって、人と神と精霊のあいだに線を引いた。
それ以来、幾百年。
聖座は、意図的に空席のまま保たれてきた。
聖座に座る者は、人が選ばぬ。教義が決めるのでも、政治が押し上げるのでもない。
精霊が選ぶ。
しかも一柱ではない。
火、水、土、風、聖、そして――光と…。
彼らの過半が一致したとき、はじめて一人の人が「教皇」として指名される。
人は、それを受け入れるだけだ。
そして今。
その時が、近づいていた。まだ名は告げられていない。
だが、確かに――定まる日が、迫っている。
サンクタ・アトゥミカ市国は、嵐の前のような静けさに包まれていた。
誰もが知っている。
次に聖座が応えるのは、「いよいよ」の時なのだと。
――その頃。
市国の記録にも、巡礼の道にも記されぬ場所。
今は使われていない旧大聖堂の、さらに奥。
崩れかけた石壁に囲まれ、光は一切届かない薄暗い部屋があった。
祈りも、賛歌も、足音すら遠い。立ち入りそのものが禁忌とされ、忘れ去られた空間。
そこに、もうひとつの聖座がある。
そして、その聖座に――光の精霊は座していた。
かつては輝きを宿していたであろう姿は、今や静かに沈み、黒を帯びているようにも見える。
それでも、なお意思は失われていない。
「……ようやく、次代が定まるか」低く、独り言のように呟く。
「聖と風とは、もう何百年も顔を合わせておらぬな。土は……ここには来まい。あれは、そういう役目だ」
一瞬の間。
それは諦観にも、皮肉にも聞こえた。
「人が決めぬのは、昔からだ。選ぶのは、我ら精霊。それがこの世界の誓いであり、神の意志というものなのだろうな」
闇に沈む聖座の前で、光の精霊は目を閉じる。
地上ではまだ、誰も知らない。
だが確実に――
聖座に座る者が定まる日は、すぐそこまで来ていた。
その者の名は――
この世界では教皇しか座ることのできない玉座のような場所を『聖座』と呼んでいます。
現実とは似て非なるものなので、その意図を汲んでお読みください。




