第413話 錬金の妖精アリア
張り詰めていた空気がようやく緩み始めているというのに、サクラだけはどこか取り残されたように、フリードとヴェゼルの背後で黙り込んでいた。
スピアーノとの戦いの最中、妖艶な大人の女性として忽然と現れた姿は、今はもうない。
体は以前より大きくなっているものの、見た目はいつもの十代半ば――少し不安定で、感情を抱え込みやすい、あのサクラだった。視線は床に落ち、指先だけが落ち着きなく衣の端をつまんでいる。
その様子に気づき、ヴェゼルが振り返って声を掛けた。
「サクラ。明日には帰ろうと思うけど……何か、言っておきたいことはない?」
問いかけは穏やかだったが、サクラはすぐには答えられなかった。
一度唇を結び、目を伏せたまま、しばらく沈黙が続く。やがて、意を決したように、ぽつりと口を開いた。
「……話したいことは、たくさんあるの」
声は小さく、しかし確かだった。
「でも、制約があって言えないの。他の精霊たちも、きっと同じだと思うけど……どうやら、私が一番きついみたい」
言葉を選ぶように、一息置く。
「あの人のことも……自分自身のことすら、何も言えない。だから……ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、肩がわずかに落ちる。
その空気を、ぱしりと破ったのはフリードだった。
「ははっ、気にすんな」
豪快に笑い、サクラを見下ろして言う。
「サクラちゃんはな、食っちゃ寝して、ヴェゼルの頭の上で涎垂らして、腹出してボリボリ掻いてるくらいがちょうどいいんだ。難しい顔して悩む柄じゃねぇ」
あまりにも雑な言い方に、サクラの眉がぴくりと動く。一瞬、明らかにむっとした空気が立った。
だが、その前にヴェゼルが口を挟む。
「でもさ」
いつもの調子で、しかし言葉だけは真っ直ぐだった。
「サクラは俺の婚約者なんだ。それだけで、十分だろ?」
サクラが顔を上げる。
「どんな過去があっても、何を言えなくても……今のサクラを、俺は好きなんだ。それでいいじゃないか」
その言葉は、飾り気も理屈もなく、ただの事実として置かれた。
一拍遅れて、横から肘がヴェゼルの肩にぐいっと当たる。
「ちょっと、いいこと言うじゃないのよ」プレセアだった。にやりと笑い、囃し立てる。
「そういうところは素直にカッコいいわよ? さっきまでフェートンさんの胸で溺れて失神してたエロガキには見えないわね!」
場の空気が、ふっと軽くなる。
サクラは驚いたように瞬きをしてから、ほんのわずか、口元を緩めた。
夜の静けさの中、勲章よりも重い言葉が、確かに彼女の胸に残っていた。
それでようやく終わったかに思えたのだが、
だが、すべてが終わったわけではなかった。
そのほんの少し前、神殿の最奥、そのさらに奥の部屋で、錬金の妖精アリアは一人、膝を抱えて小さく泣き続けていた。声を殺しても、涙だけは止まらず、胸の奥がきゅっと縮むたびに、嗚咽が漏れそうになるのを必死で堪えていた。
一人きりというのは、思っていた以上に心を削る。みんなに馬鹿にされ、いじめられていても、誰かがいてくれたのと今では大違いなのだとつくづく思うのだった。
行く場所もなく、ついていく相手もなく、ただ残ったという選択だけが重くのしかかり、結局アリアはその部屋を出ることができずにいた。
風の精霊が去る前、エコニックには「妖精が一人残る」とだけ伝えられていた。しかし最奥の間は、妖精以外が立ち入れない聖域であるため、エコニックの意を受けた聖職者たちはその外で見守ることしかできない。
扉の向こうに気配はある。それは分かっているが、声をかけることも、助けに入ることも許されない。
やがて、フリードたちへの授与が終わる頃――
一昼夜、何も口にしていなかったアリアの空腹は、恐怖よりも強くなっていた。
そっと、妖精の間から外をうかがう。
人の気配があり、見張りがいるのが分かる。怖くて、なかなか踏み出せない。それでも腹の奥がきゅうと鳴り、耐えきれなくなって、交代の一瞬を狙って、すっと廊下へ滑り出た。
風の精霊の間からは、かすかに精霊や妖精の気配が残っているようだ。土の精様達かもしれないとアリアは思った。
だが、そこへ行けば、また何を言われるかわからない。嘲られるかもしれないし、疎まれるかもしれない。そう思うだけで足が竦み、アリアは首を振って、さらに先の部屋を目指した。
大きな扉に手をかけ、そっと押し開く。
中では、かつて一度だけ顔を見たことのある聖女が、誰かと話していた。その隣には、大柄な男と背の高い男と――もう一人、年若い男の子がいた。
整った顔立ちで、どこか柔らかな雰囲気をまとっている。そのすぐ後に、アリアは今まで感じたことのない、不思議な気配を感じ取った。確かに“何か”がある。
すると、偶然視線が合ってしまった。
「あっ! 妖精ちゃんだ!」声を上げたのは、サクラだった。
一瞬で視線が集まり、アリアは扉の影に立ち尽くしたまま、動けなくなる。
少年と、少女の妖精が近づいてくる。
少年――ヴェゼルが、屈み込んで穏やかに声をかけた。
「妖精か……一人なの?」
アリアは、どきどきしながらこくんと小さく頷く。
それだけで、胸がぎゅっと締め付けられた。
「ちょっと、ごめんね」
そう前置きしてから、ヴェゼルは両手でそっと、壊れ物を扱うようにアリアを包み上げた。
驚くほど優しい手だった。
「なんだか、髪がボサボサだね。ちゃんと整えたら、もっと可愛くなるのに」
その言葉に、アリアの胸が跳ねた。“可愛い”と言われたのは初めてだったのだ。
風の精霊はいつも優しく、誰にでもそう言っていた。けれど、人に、まして男の子に言われたことはなかった。
頬が熱くなり、視線を落とす。
そこへ、ずいっと前に出てきたサクラが、腰に手を当てて宣言した。
「ヴェゼルは私の男なんだから、手出ししちゃだめよ!」
親指まで立てたその勢いに、アリアの心は耐えきれなかった。怖さと、これまでの記憶と、否定される不安が一気に溢れ出し、声を上げて泣き出してしまう。
「わあ……っ、ひっ……」
慌ててヴェゼルが抱え直し、背を撫でる。
「大丈夫、大丈夫……」
そして、サクラをやんわりと嗜めた。「だめだよ、サクラ。泣かせちゃ」
サクラははっとして、シュンと肩を落とす。
その腕の中で、アリアは初めて、誰かに守られている温かさを知ったのだった。




