第412話 〜そして伝説へ〜 とはまだいかない
その日の夜、急遽ではあったが、神殿の総主教の私室にエコニックが見込んだ少数の聖職者が集められた。
本来であれば、大聖堂を用い、全教国に向けて大々的に執り行うべき場であろう。だが今は、儀礼よりも速度と確固たる証拠の確立が優先された。
フリード、ヴェゼル、エスパーダ、プレセアとソニア、ルドルフとシャノン、そして十代後半の大きさになったサクラがいる。少数ではあるが、この場に集められた顔ぶれだけで、何か重要な話があることは十分すぎるほど理解できた。
神殿の中へ足を踏み入れた瞬間、かつて高位にあった司祭たちが、一般の聖職者と変わらぬ聖衣を纏い、一斉に膝をつき、額を床に打ちつけて許しを乞う。その光景だけで、周囲の空気はざわりと揺れ、否応なく注目を集めてしまう。
彼らを取り囲むのは、かつての高位聖職者と、すでにエコニックへ忠誠を誓った者たち。昨日の今日なので、念の為、いらぬ揉め事を避けるためにタンドラが差配してくれたようだ。
その奇妙な沈黙と、張り詰めた緊張に包まれたまま、一行は総主教の部屋へと通された。
正面、総主教の玉座には、暫定とはいえエコニックが腰掛け、その左右にタンドラとフェートンが控えて立っている。
エコニックはヴェゼルたちの顔を見渡し、ほんのわずかに肩をすくめて苦笑した。
「……まだ、慣れませんね。この席は」
まず彼が向き直ったのは、プレセアとソニアだった。
フォルツァ商業連合国の外交全権代理大使と、その武官として、本来背負う必要のなかった戦争の後始末を担わせてしまったことへの正式な謝罪。
そして今後、より良い関係を築いていきたいという意思を、言葉を選びながら丁寧に述べる。さらに、今後のフォルツァ商業連合国との窓口を、プレセアの商会に任せたいと申し出た。
続いて、フリードたちへと向き直る。
今回の件は、教国がビック領に対して戦争を仕掛け、そして教国が『ビック家』に敗北した戦争である。
それを公式に宣言し、文書として残すこと。
またこれは、ビック家とトランザルプ神聖教国との戦争であったと、教国自身が認めるものであると。敗者としての責任を、最大限の形で示す。
そのために――
ビック家を、教国における最恵国(実際には領)待遇とすること。未来永劫、教国はビック家に刃を向けぬこと。
そして最後に、フリードに勲章を授与する、と告げた。
照れたように頭を掻きながら、フリードが一歩前に出る。
その前に進み出たタンドラが、厳かな声で宣言した。
「フリード・フォン・ビック殿に、『トランザルプ神聖教国金救国勲章』を授与する」
静寂の中、勲章がフリードの胸元に留められる。
その瞬間、プレセア、ソニア、エスパーダがはっと息を呑んだ。
一方で、当のフリードとヴェゼルは、その意味をまだ正確には理解していない様子だった。
エスパーダが低く告げる。
「……この勲章は、教国の史上二人目です」
思わずフリードが聞き返す。
「二人目? 最初の一人は誰だ?」
「この国を精霊様と共に建国した初代総主教です」
その答えに、さすがのフリードも目を見開いた。それは世界的にも知られる、教国における最上位の勲章だった。
“救国”の名が示す通り、国家を存続させるに等しい功績を成した者にのみ授けられる、特別中の特別。
さらにタンドラが続ける。
「異例ではありますが、この勲章は、次代のビック領主にも資格が及びます」
それが意味するところを、ヴェゼルは即座に理解した。そこでプレセアが静かに補足する。
教国から先に仕掛けたとはいえ、それに対して報復した以上、たとえフォルツァ商業連合国がお互いの国と『領」の戦争と認めたとしても、バルカン帝国の首脳や他貴族から何らかの咎めや叱責を受ける可能性は残る。
しかし、教国がここまで明確な宣言を行った以上、帝国の貴族はおろか、皇帝ですら軽々しく手出しはできないことになるだろう。
つまりこれは、教国がビック家の後ろ盾となった、という宣言であり、同時に、教国自身もまたビック家を後ろ盾とした、ということだった。
ここでフリードは、一度深く息を吸い、エコニックとタンドラを正面から見据えた。その眼差しには怒りよりも、疲労と、それでも前へ進もうとする覚悟が滲んでいる。
「ビック領でも、死んだ者がいる。傷ついた者もいた」
低く抑えた声が、静かな室内に落ちる。
「そして教国は……俺とヴェゼルの前で、それ以上の人を傷つけ、容赦なく殺した」
そこで、エコニックがゆっくりと頷き、短く言葉を添える。
「……その事実は、誰にも消せませんね」
フリードは一度だけ視線を伏せ、再び言葉を継いだ。
「だからこそ、俺たちを恨む者も多いだろう。恨まれて当然だ。俺自身、それを否定するつもりはない」
「同時に――」と、今度はエコニックが受け取るように口を開く。
「ビック領の側にも、教国を恨む者はいるでしょうね」
「そうだ」
フリードは短く応じ、そのまま言葉を重ねる。
「互いに血を流した以上、その感情を“なかったこと”にはできない。憎しみも、恐れも、悲しみも……どうすることもできない」
一瞬、沈黙が落ちる。
その重さを受け止めるように、タンドラもフェートンも、言葉なく頷いていた。
「だがな」
フリードは拳を握り、ゆっくりと開く。
「少なくとも、ここにいる俺たちは――都合が良いということは分かってるけど、もうこれ以上は、水に流したいんだ。これからは一緒に…手を取り、そして、楽しかったら笑えばいい。そんな未来にしたいんだ」
争いを正当化するでもなく、許しを強いるでもない、ただの切実な願いだった。
エコニックは目を細め、深く首を縦に振る。
「……ええ。だからこそ、我々はここに立っているのでしょう」
タンドラも、フェートンも、同じ思いを共有するように大きく頷く。
言葉は少なくとも、その場にいる者たちの意思は、確かにひとつに揃っていた。
フリードはそこで、深く考えるのをやめたらしく、にかっと笑って言う。
「エコニックさん、フェートンさん。もし危ないことがあったらな、ちょっと遠いけど、また助けに来るからな……タンドラさんのことはよく知らんから……まぁ、要相談だな!」
ヴェゼルも黙って頷いた。
タンドラが賠償金その他の話を続けようとしたところで、フリードが手を振って遮る。
「総主教も倒したし、風の精霊も排除した。それに、こんなどえらい勲章まで貰ったんだ。もう十分だろ?」
「な? ヴェゼル」
ヴェゼルも同意するように頷き、そして、にやりと笑った。
「じゃあ、俺からは一つだけご褒美を貰ってもいいですか?……フェートンさんの……ええと、その……」
歯切れの悪い言い方だったが、あくまで冗談のつもりだった。
――しかし。
「ヴェゼルちゃん!」察しが良すぎたのか、あるいは悪すぎたのか。
フェートンはそう叫ぶなり駆け寄り、そのまま勢いよく抱きしめた。
「ちょ、ちょっと――」抗議が最後まで届く前に、ぎゅう、と力が入る。
最後だからと張り切りすぎたフェートンの全力の抱擁に、ヴェゼルの視界は一瞬で暗転した。
数秒後。
満足そうな笑みを浮かべたまま、ぐったりと力の抜けたヴェゼルが完成していた。
その様子を見下ろし、プレセアが呆れたようにため息をつく。
「……やっぱり、ただのエロガキじゃないのよ」
その一言で、場にいた全員が吹き出した。
どうにも締まらない終わり方ではあったが――
エコニックは、その光景を見て、ふっと肩の力を抜いた。(……わざと、道化を演じてくれたのでしょうね…)
重くなりかねない別れの場を、笑いで包むために。彼は、あえて道化になったのだと。
こういう終わり方こそ、彼ららしいのかもしれない。エコニックは、そう思った。
こうして、ビック領とトランザルプ神聖教国の戦争は、名実ともに――終結したのだった。
――もっとも。
意識を失う直前、ヴェゼルの脳裏に「最後にもう一回くらいなら……」などという、邪な考えがよぎったかどうかは、定かではない。
それこそ――
神のみぞ知ることであろう。




