第406話 風の精霊と聖の精霊と土のおじさん
スピアーノの最期を見届けた後、風の精霊はその場から消えた。
足音も余韻も残さず、ただ“そこにいなくなった”という事実だけが残る。まさに、風の名に相応しい去り方だった。
次に風の精霊が現れたのは、限られた者しか入れない神殿最奥の間。
そこでは、聖の精霊が椅子に腰かけたまま、微動だにせず座っていた。
視線は宙の一点に固定され、呼吸も、鼓動すらも感じられない。置物のようでいて、しかし破壊することも触れることも許されぬ――そんな存在。
風の精霊は、そっとその傍に寄り添った。
聖の精霊の頭にそっと手を置き、慈しむように、ゆっくりと撫でる。
「……私の、ここでの役目はようやく終わりました」
誰に聞かせるでもない、独り言のような声だった。
「少し遠いのですが……また、旅に出ましょう」
その頬に、愛おしむように唇を触れさせる。その瞬間、聖の精霊は初めて反応した。静かに視線を上げ、風の精霊の目を見る。
だが、それだけだった。言葉も、感情も、そこにはない。
風の精霊は微笑み、囁く。
「少しだけ……待っていてくださいね」
そう告げて、最奥の間を後にする。
やがて、完全な静寂が戻った。
誰もいないことを確かめるように、周囲を見渡した後、聖の精霊の瞳に微かな光が宿る。そしてゆっくりと立ち上がり、風の精霊が現れた方向――扉へと歩み寄る。
軋む音一つ立てず、扉は開かれた。その先には、血の匂いが満ちていた。
床には血溜まりが広がり、折り重なるように転がる死体。
その手前で、スピアーノが事切れている。
そして、その光景を前に立つ者たち――フリード、ヴェゼル、エスパーダや他の者達。
聖の精霊は、一人の男に視線を留めた。
フリードだった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、感情に似た揺らぎが浮かぶ。
「……その聖は」
低く、かすれた声。
「あなたには、強すぎる」
それだけ呟くと、聖の精霊はフリードを見つめたまま、何かを小さく唱えた。言葉とも、祈りともつかぬ響き。
次の瞬間、目に見えぬ“何か”が、確かにフリードを覆った。誰も気づかない。音も、光も、衝撃もない。
だが、世界のどこかで、確実に“切り離された”感触が伝わる。
聖の精霊は、満足したように、ふっと微笑む。
そして何事もなかったかのように扉を閉め、再び最奥の間へ戻る。
椅子に腰を下ろし、視線を虚空へ。
また意識は霧のようにこの世界に散り、再び“そこに在るだけの存在”へと戻った。
その背後で、教国の一つの時代が、静かに終わっていった。
風の精霊が次に向かったのは、自分の部屋だった。
扉を開ける前から、部屋の隅の方からは独特の気配が漂っている。
魔力と鉱石と、思考の渦。そこだけ、時間の流れがわずかに歪んでいるようだった。
案の定、部屋に入るとその隅と言って良いのかどうか……土の聖霊の私物で部屋が溢れかえっている。
土の精霊は机に向かい、何かに没頭していた。視線は器具と金属片に注がれ、風の精霊の存在など最初から意識していないようだった。
「……おう」
ようやく気づいたのか、こちらも見ずに、声だけで挨拶を漏らす。
「これが、なかなか難しいんじゃ……」
誰に言うでもなく一人で呟く。机の上には、淡く光る金属。
ヴェゼルが見つけ出したプラチナだった。その内部に魔力を定着させようと、何度も試行を繰り返しているらしい。
風の精霊は、その背中を見つめたまま、大きく息を吐いた。それは苛立ちでも怒りでもなく、いつもの諦めにも似たた溜息だった。
「……私たちは、この教国を離れることにしました」
土の精霊は、手を止めない。
「あなたも……ついてきますか?」
しばしの沈黙。
金属に触れる音だけが、淡々と刻を刻む。
やがて、土の精霊は顔も上げずに言った。
「行かん」短い答えだった。
「わしは、お前らとは行かん。あの小僧と共におる」
工具を置き、プラチナを眺めながら続ける。
「面白い方向に刻を歪めよる。研究しがいがあるわい」
風の精霊は、何か言いかけて口を閉じた。説得も、問い返しも、意味を持たないと悟ったからだ。
「……それも、神の意思なのでしょうかね」
自嘲気味にそう呟き、静かに頭を下げる。
「では、ここでお別れです。いろいろと……お世話……にはなっていませんね。……お世話を………しましたわ」
最後の言葉は、ほとんど風に溶けた。風の精霊は微かに笑い、そのまま部屋を後にする。
扉が閉まっても、土の精霊は一度も振り返らなかった。
ただ黙々と研究を続け、世界の変化を手元の金属に映し取る。しばらくしてから、ふと手を止める。
「……ようやく、また刻が進み始めたか」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
「どの方向へ進むのかは分からん。じゃが……」
プラチナを光にかざし、目を細める。
「わしは、ただ見守るのみじゃ。それがわしの、いや、土の精霊の役目じゃからの」
そして一人声にないつぶやきを漏らした。「これで良いのじゃろう? 意思よ…」
再び、研究の音が部屋を満たした。
外で何が起きようとも、土の精霊の刻は、静かに、確かに動き続けていた。




