第405話 襲撃作戦の開始20
風の精霊は、しばし沈黙していた。
夜気がその身を撫でても、もはや応える風は生まれない。やがて、低く乾いた声が落ちる。
「……闇の妖精、いえ、今は“闇の精霊”と呼ぶべきかしら」
視線はサクラに向けられている。
だが、その奥の瞳に映るのは、確かにヴェゼルだった。
「私は、聖の……いいえ、神の意思に従っただけ、だからといって、すべてを責任転嫁するつもりはないわ、私の罪は、私自身の罪よ」
一拍置き、静かに続ける。
「でも、誤算だったのは力の差ではないの。あなたたちが“選ぶ”ということを、私も、聖の精霊も……神の意思でさえ、軽く見ていた」
ゆっくりと周囲を見回す。
「人は、導けば従うもの、精霊は、流れを整えれば世界は安定する、そう盲信していたの……人そのものを、信じてはいなかった」
自嘲するように、微かな風鳴りが生まれる。
「選別は、安定ではなかった、浄化は、救済でもなかった、本当は……分かっていたはずなのにね」
それは懺悔ではない。ただの事実確認だった。
「スピアーノ様は、私たちの器だった。私が選んだわけではないわ。これは決まっていたことなの。抗えない運命。聖も、神さえも……そこに、ただ乗っていただけよ」
そこで初めて、視線を逸らす。
「そして器は壊れ、世界は、いえ、神は、本来は拒むはずがないのだけど、結果として…それを拒んだ…。と言うことは、神と、意思とは似ているけれど、違うものなのかもしれないわね…」
風の精霊は夜空を仰ぐ。そこに、もはや自分の居場所はないと悟ったように。
「……この地に、私の役割はもうない」
わずかな間を置き、静かに付け加える。
「けれどね、これもまた、神の意思の思惑どおり、私たちは……抗えなかった」
最後に、サクラを見る。
「闇、あなたが“裁かない”存在であることだけは理解したわ、闇の妖精だと思っていたけれど……、あなたは、すでに精霊に至っていたのね」
一瞬、感情の揺らぎが走る。
「本来なら、神の意思の呪縛が溶けるはずはない、……だからこそ、厄介だわ……」
風の精霊は、視線を宙に彷徨わせたまま、まるで言葉を選ぶこと自体が罪であるかのように、ゆっくりと息を吐いた。
「私は……あなたを……できることなら、スプラウトに、いえ、“無”にしたかった……光も、聖も、それを強く望んでいたから」
微かに声が揺れ、空気がひとつ震える。その震えは怒りではなく、後悔と諦念が混ざり合ったものだった。
「けれどね……同時に、そんなことはできないとも分かっていたわ。あなたを失えば、光は自分を保てず、聖は耐えられない。あの方達は……あなたに依存していたの。救われているつもりで、結局は縋っていただけだった」
風の精霊は、そこでようやくサクラへ視線を向ける。その瞳には、責める色よりも、痛みの方が濃く滲んでいた。
「それなのに……あなたは光も聖も受け入れなかった。拒んだわ。それはきっと正しかったのでしょう、あなたにはあなたの理由があった。でも――」
言葉が、喉の奥で一度、詰まる。
「私は、聖をああしてしまった原因は、あなたにあると思っている。だから……あなたが嫌い」
その告白は、刃のように鋭いはずなのに、どこか脆かった。
「大嫌いよ。あなたがいなくなった世界で、あなたを好きになどなれない。……昔から、そして今も」
サクラは唇を開きかけたが、声にはならなかった。
否定も、弁解も、慰めも――そのどれもが、この言葉の前では軽すぎた。
「……おかしいでしょう?」風の精霊は、自嘲するように、かすかに笑う。
「あなたは、何ひとつ悪くないのに。誰よりも誠実で、誰よりも背負って……それでも私は、あなたを責めることしかできない」
風が、静かに吹き抜ける。
それは裁きではなく、祈りにも似た、取り返しのつかない感情の残滓だった。
風の存在が、徐々に薄れていく。
そして、エコニックへと視線を移す。
「これから教国を導くのは、あなたのようね。スピアーノ様はあなたに託した。すべてを押し付けるようで申し訳ないけれど、これもまた……神の意思」
フリードとヴェゼルを見る。
「ここで私を殺しても構わない。ルミナントにしても、スプラウトでも、無にしても。でもね……これは私でなくとも、誰かが担わねばならなかった役割なの」
静かに告げる。
「…境界を示す者……………境界を渡る者、それさえも、神の意思…」
「……ごめんなさいね」風が収束を始める。
「私達は教国を去るわ。風は、もう選別を担わない」
消えゆく直前、残響だけが残った。
「次に会うことがあるなら……、それは、世界がまた“選ばねばならぬ時”でしょうね。聖の精霊は、私が連れていく。妖精たちも……望むなら拒まない、土の精霊は……あれは気ままだから……どうなるかしら?」
風は止み、空気は静まり返った。精霊は逃げたのではない。
役割を終え、退いたのだ。
フリードも、ヴェゼルも、エコニックも――
誰ひとり、言葉を返せなかった。
風の精霊でさえ、抗えぬ業を背負っていたようだ。それを、誰もが理解してしまったからだ。
ただ胸の奥に残ったのは、言葉にできぬ、後味の悪い怒りだけだった。
風の精霊が完全に消えた後も、誰ひとりとして、すぐには動けなかった。
夜気は静まり返り、精霊が去ったという事実だけが、重く場に残されている。
最初に息を吐いたのは、フリードだった。乱れた呼吸を整えるように胸を押さえ、それから低く唸る。
「……結局、神の意思、か」怒号ではない。
だが、その声音には、抑え込まれた憤りが確かに滲んでいた。
「人がどれだけ死んだと思っている。ビック領が、この教国の民が、どれだけ壊されたと思っている。それを全部ひっくるめて……“役割だった”で済ませる気かよ」
拳が、ゆっくりと握り締められる。床に叩きつけることはしない。だが、その指先は白くなるほど力が込められていた。
ヴェゼルは、視線を落としたまま、静かに言葉を継ぐ。
「神の意思が、世界の安定を望むものだとするなら……、その安定は、誰のためのものなのでしょうか」
誰に問うでもない。それでも、問いは場に落ち、重く残った。
「教国は振り回され、ヴァリーさんは命を奪われ、父さんや多くの人が命を奪われかけ、多くの民が選別という名で切り捨てられた。そして俺たちは何百という命を散らした。それが……“必要だった”と?」
わずかに顔を上げる。
「もしそれが神の定めなら、神とは……何を守ろうとしているのですか」
エコニックは、胸の前で組んでいた手をほどき、静かに首を振った。
「教義では……神の意思とは、人知を超えた善だと教えられてきました」
だが、次の言葉は、はっきりとした違和感を帯びている。
「ですが、今夜見たものは……善ではなく、計画でした、人も、国も、精霊さえも……、駒として配置された、冷たい意思」
フリードが、吐き捨てるように言う。
「境界を示す者、境界を渡る者……だと?」
苦笑にもならない表情で、肩をすくめる。
「そんな言葉で飾れば、何をしても許されるって言うのか。世界を壊しても、血を流させても、“境界”のためなら仕方ないと」
プレセアは、黙ったまま、サクラを見つめていた。
しばらくして、ぽつりと漏らす。
「……境界って、誰が決めるんでしょう。そもそも境界って何?」
その声は、小さいが、確かだった。
「人が越えてはいけない線なのか、それとも……神が、越えさせたい線なのか」
唇を噛み締めたまま、拳を胸元に当てている。「もし……、私たちが“渡る者”だと言われたなら」
一度、言葉を切る。
「それは、選ばれたという意味なんですか、それとも……使われる、という意味なんでしょうか」
答えはない。誰も、それを持っていなかった。夜は深く、静かで、あまりにも無関心だった。
神の意思が通り過ぎた後の世界は、説明もなく、責任も残さない。
ただ、確かに残ったものがある。理不尽への怒り。理解できないものへの警戒。
そして――決定的な不信。
ヴェゼルは、ゆっくりと視線を上げる。
「……少なくとも、ひとつだけ分かりました」
皆の視線が集まる。
「神の意思は、万能でも、慈悲深くもない。少なくとも……人の側に立ってはいない」
その言葉に、誰も反論しなかった。神の意思とは何なのか。
何を目的に、世界を揺らしたのか。境界とは何で、渡るとはどういうことなのか。
疑問は解けない。
だが、忘れられることもなかった。
それは、怒りとして。
そして――これから抗うべき“相手”として。
と、こうなってしまいました。
なんかなぁ。。
考えてた方向とずれていくなぁ。。
今後どうしようかなぁ。。




