第404話 襲撃作戦の開始19
スピアーノが、風と聖の魔力を練り上げた――その、まさに瞬間だった。
大気が揺れる。音ではない、衝撃でもない。世界そのものが、ほんの一瞬、呼吸を止めたかのような感覚だった。
夜の空気に黒い靄が滲み出す。最初は淡く次第に濃くなり、闇は凝縮され、重なり収束していく。次の瞬間、その内部から淡い光が迸った。闇と光は反発しない。否定し合うこともなく、溶け合うこともなく、ただ同時にそこに在った。
そして――姿が顕現する。
それはサクラだった。
いつもの、掌に収まる妖精の姿ではない。夜の支配を受け、精霊としての本来の位階を取り戻した存在。闇の精霊としてのサクラは、いつもの少女の大きさを遥かに超える妖艶な女性の体で、静かに戦場に立っていた。
威圧はない。怒りもない。だが、その存在感そのものが、場を支配していた。
「……もう、やめて」
サクラの声は静かだった。だが、その一言は嵐よりも重く、戦場に落ちる。
顕現と同時に、サクラはゆっくりと手を掲げた。詠唱はない。言葉もない。ただ、それだけ。
それだけで、スピアーノの周囲で渦巻いていた風と聖の魔法が、まるで最初から存在しなかったかのように霧散した。
――無効化。
いや、それだけではない。
闇が広がる。重なり、染み渡る。洗脳、聖の刻印、風の精霊による誘導、そして神の意思。
それらすべてが、同時に、根こそぎ断ち切られた。
「……な……?」
風の精霊が、明確に動揺を露わにする。
「闇の妖精、では…ない……? 闇の…精霊…? 神の意思よ…話が………違うではないですか……」
その声は、誰に届くこともなく、夜に溶けて消えた。
スピアーノの身体から力が抜ける。否、正確には――借りていた力が、すべて返されたのだ。
次の瞬間、彼の瞳が大きく見開かれる。理解は一瞬だった。
自分が行ってきたこと。民に向けた暴力。信仰と称した恐怖。聖の名を借りた選別と粛清。
今までは「靄がかかっていた意識」そのすべてが、「自分の意思」だと、信じて疑わなかった行為が、根底から崩れ落ちる。いや、実は頭の片隅では思っていたのだ。なぜそうしなければならないかの葛藤と悔恨。それが全て一瞬で氷解したのだ。
同時に、幼き頃の記憶が溢れ出す。まだ総主教ではなかった自分。無垢で愛を求めていた幼いエスパーダの顔。
自分の顔を似て笑う妻の顔。そして自分は理を求め、真理を信じ、ただ研究に没頭していた日々。
……気づくと自分を見て哀しい表情をする妻の顔。
言い訳はない。逃げ場もない。すべてが、一息で胸に流れ込んできた。
「……あ……ああ……」膝が崩れ落ちる。
スピアーノは震える手で、自らの聖衣を引き剥がした。その下、胸に刻まれた聖の刻印に触れる。一瞬の躊躇もなく、それを引き剥がす。光が悲鳴を上げるように散り、刻印は砕け、聖性が剥離した。
続いて、彼は祈る。だが、それは神に捧げる祈りではない。神の名を根底から否定する、拒絶の言葉だった。
「……我は、従わぬ」
最後に、彼は自らの内奥へと手を差し入れる。信仰と聖性によって形成された“聖の核”。
それを――握り潰す。
鈍い音とともに光が砕け散る。肉体が耐えられるはずもなかった。聖を拒絶した身体は、もはやこの世界に留まる術を失っていた。
それでも、スピアーノは顔を上げる。「風よ、聖よ、神の意思よ……」
声は震えていない。
「私は、お前たちの望んだ結末では、決して死なん」
息を整え、はっきりと言い切る。
「これは、贖罪ではない。服従でもない」
そして、最後に。
「――私が、私であるための、選択だ」
その瞬間、彼は自らの胸に手を当てた。心臓を抉るためではない。命を支えていた、最後の“残滓”を完全に拒絶するために。
光が消え、風が止み、スピアーノの身体は静かに崩れ落ちた。誰にも殺されず、誰にも裁かれず、ただ自らの意思だけを残して。
夜は、何も語らず、それを包み込んだ。
沈黙の中で、ヴェゼルがルドルフに視線を向け、短く告げる。伝言を頼むよ、その一言だけで十分だった。
ほどなくして、慌ただしく駆け込んできた。エコニック、フェートン、プレセア、ソニア。
息を切らして入室した彼女らの視線は、真っ先に床に横たわるスピアーノへと吸い寄せられた。
その変わり果てた姿を見て、エコニックが言葉を失う。
「……あ、あれが……本来の……スピアーノ総主教猊下、なのですか……」
絶句だった。
エスパーダは、抱えていたフリードをそっと床に下ろし、ふらつきながらスピアーノへと駆け寄る。
「父上……!」心臓は、もう止まりそうだ。もう手の施しようはないだろう。
それでも――。
スピアーノは、最後の魔力を振り絞るように、エスパーダを見つめた。
「……エスパーダよ……すまないな……」声は弱々しいが、意識ははっきりしている。
「私の心が弱かったばかりに…お前を傷つけた…いや…お前だけではない…多くの教国民を…絶望へ追いやってしまった……」
一息、整える。
「私一人の命では…贖えぬことは…十分、承知している…だが…次の未来へ至るには…避けて通れぬ道だということも……理解しておる……」
視線を逸らさず、続けた。
「私は…本来の私であるために…自分を…許せなかった…神にも…精霊の呪縛さえも…解き放ち…本来の自分に戻りたかったのだ…」
小さく、苦笑する。「これは…私の、わがままだ…すまぬな…」
息が、細くなる。
「教国が……腐敗し……崩壊することは……分かっていた……だから……お前だけは……生きていてほしくて……追放した……」
視線が揺れる。
「だが…なぜか…お前は…ビック領へ行き…そして…また…戻ってきてしまった…」
微かな笑み。
「これも…神の定め、だったのかもしれぬな…私は…天に召されることは…あるまい…だが…もし…お前の母に会えたなら…詫びよう…お前のことも…そして…私自身のことも…」
その後、スピアーノは、ちらりとエコニックを見て、穏やかに微笑んだ。そして、サクラへと視線を向ける。
「…闇の精霊様…あの高位聖職者たちも…元は…真面目な聖職者や研究一筋の者たちだった…」
声は、ほとんど囁きだった。
「教国を…ここまで腐敗させ…自らも…堕落し…享楽を貪ったのは…事実だ…だが…一度でよい…あの者たちにも……先ほどの…許しの光を…」
息を吐く。
「殺すのも…死ぬのも…簡単だ…だが…今…命を奪っても…一時の…自己満足しか…残らぬだろう……」
最後に、力を込めて。
「もし…悔い改める機会があるのなら…もう一度…機会を…与えては…くれぬだろうか…。聖女よ…後は頼んだぞ……」
それだけを言い終えると、スピアーノの呼吸は完全に止まった。
エコニックは、胸の前で静かに手を合わせる。
エスパーダは、その死を見届け――ゆっくりと、風の精霊を睨み据えた。
ヴェゼルも、フリードも、ようやく身を起こし、同じく風の精霊を見据える。
夜は、まだ深かった。
スピアーノの「我」・と「私」の混在。
違和感、、わかってはいるのですが、
その方がまぁ、雰囲気でるかなと思いまして。。




