第401話 襲撃作戦の開始16
スピアーノ総主教の部屋の前で、フリードは一度だけ足を止め、背後の面々に無言で目配せした。
その合図と同時に、ためらいなく脚を振り抜く。重厚な扉は鈍い音を立てて蹴破られ、蝶番ごと内側へと崩れ落ちた。
先頭に立つのはフリード。続いてヴェゼル、エスパーダ、そしてシャノンが間合いを保って踏み込む。
壁も天井も金と宝石で飾られ、香の匂いが重く澱んでいる。信仰の場というより、権力と虚飾を煮詰めた箱だった。
部屋の奥、玉座めいた椅子には妙齢の女性が優雅に腰掛け、その一歩前には、ブクブクと醜く肥え太った、過剰なまでに着飾った醜悪な男が立っている。目や鼻や立ち姿を見ても、エスパーダの面影は感じなかった。
その周囲では、高位聖職者たちが肩を寄せ合い、怯えを隠しきれないまま群れている。
彼らは、フリードとヴェゼルを見るなり、堰を切ったように言葉汚く罵り始めた。
「異端者め!」「神殿を血で汚すとは――」「神も精霊様をも恐れぬ所業だ!」
その喧騒を、低く、しかし鋭い一声が断ち切る。
「――黙れ」
総主教の声だった。高位聖職者たちは、まるで糸を切られた操り人形のように口を噤む。
だが、その沈黙に耐えきれなかったのだろう、一人が前に出て叫んだ。
「ですが、総主教猊下! この下賎な輩どもはクルセイダー達を殺し、魔法聖職者を屠り、果てはウロッコ様まで――! 神殿を血で穢すなど、あまりにも――こや…」
最後まで言葉は続かなかった。
スピアーノ総主教は短く呟き、手を振り下ろした。次の瞬間、その男の首が床に転がった。血が噴き出し、遅れて胴体が崩れ落ちる。
高位聖職者たちは悲鳴とも奇声ともつかぬ声を上げ、後ずさった。
総主教は、床を転がる首に視線すら落とさず、低く言った。
「……私が黙れと言ったのが、聞こえなかったのか?」
誰もが口を押さえ、部屋は凍りついたような静寂に包まれる。その沈黙を、背後の女性が愉しげに破った。
「ほほほほ…ようやく来たのですねぇ? ここまで随分時間がかかったようですね?」
風に撫でられるような声だった。
「風の妖精ジルフが、随分とお世話になったようですわね。これは、きちんとお返しをしないといけませんわね」
彼女はヴェゼルを眺め、首を傾げる。
「あら? 今日は闇の妖精はさんは来ていないのですね? それは残念だわ……二度手間になるわねぇ」
ヴェゼルは眉をひそめた。「……二度手間?」
女性は、まるで日常の話でもするように、あっさりと言った。
「闇の妖精なんて、百害あって一理なし。闇の『国堕とし』など、スプラウトにでもなるのが一番なのよ?」
そして、思い出したように微笑む。
「あら、名乗っていなかったわね。私は風の精霊。……あなたが、ヴェゼルさんですわよね?」
その瞬間、フリードが一歩前に出た。
「ずいぶん余裕じゃねぇか」低い声に、怒りが滲む。
「よくもヴェゼルたちを襲撃してくれたな。ヴァリーさんを殺し、挙げ句の果てに俺の領に魔物を放ち、妖精とクルセイダーで潰そうとしやがった。その総元締めがお前か?」
剣を肩に担ぎ直し、睨み据える。
「その報復だ。そこの総主教と――そして、お前を殺しに来た」
風の精霊は、楽しそうに目を細めた。
「まあ……ここまで来るのに、随分血を流したようですわねぇ? もう、立っているのもやっとなんじゃないのかしら?」
フリードは歯を見せて笑った。「お前と差し違えても構わねぇ。必ず排除してやる」
「おお、怖い怖い」風の精霊は戯けるように肩をすくめた。
怒りも焦りもなく、まるで出来の悪い芝居を最後まで見届ける観客のように。やがて、低く、しかしよく通る声で口を開く。
「……では、理由は要るまい」
その視線が、真っ直ぐにフリードを射抜く。
「戦いを始めるか?」
フリードは余計な言葉を返さず、短く頷いた。肩に担いだ剣を握り直し、足先で床を踏み締める。
次の瞬間だった。
スピアーノはゆっくりと首を一度大きく回し、関節を確かめるように片肩を持ち上げる。そして、不自然なほど斜め上へ首を捻じ曲げ、骨の鳴る音すら聞こえそうな動きで、フリードを睥睨した。
そのまま、何事もなかったかのように、豪奢に着飾った法衣へと手をかける。
金糸と宝石の縫い込まれた布が床に落ちた瞬間、場の空気が変わった。
現れたのは、無駄な贅肉の一切ない、鍛え抜かれた壮年の男の身体だった。背筋は真っ直ぐに伸び、重心は低く、足運びには一切の隙がない。
その顔立ちは――どこかエスパーダを思わせる。いや、正確には「年を重ねた先のエスパーダ」と言うべき姿だった。
周囲の高位聖職者たちが、一斉にざわめく。
「こ、これが……本当の猊下のお姿……?」「な、なんという……」「我々にすら、偽りの姿を……?」
エスパーダ自身も、息を呑んでその姿を見つめていた。父の“真の姿”を、彼もまた初めて目にしたのだと、その表情が物語っている。
あの醜悪に肥え太った体躯も、弛んだ顔も――すべては変装の魔道具による偽り。信仰の象徴として振る舞うための仮面にすぎなかったのだ。
スピアーノは一歩、前へ出る。
その所作には、長年剣を握ってきた者特有の、揺るぎのない重みがあった。
「来い」低く、静かな声だった。
「相手になってやろう」
こうして――総主教スピアーノと、フリードの戦いが幕を開ける。
その瞬間、部屋の煌びやかさは、ただの血塗られた舞台へと変わった。




