第395話 襲撃作戦の開始10
階段の最上段が見えた瞬間、ヴェゼルの目に飛び込んできたのは、赤黒く濁った光景だった。
天井から差し込む月光が、床を覆う血溜まりに反射を返している。
詰所だったらしい部屋の壁には盾が掛けられていたが、どれも叩きつけられたように落ち、床には槍の穂先や折れた柄が無造作に散らばっていた。
生臭い血の匂いが空気を支配し、まるでこの場そのものが息をしているかのようだ。
その中央に、一人、異様に生き生きした影があった。
フリードである。
彼は豪快に笑い、剣を振るたびに血が噴き、紅い線を軌跡のように周囲へ散らしていく。斬られたクルセイダーたちは悲鳴を上げる間もなく倒れ、足元に沈む。
彼の剣に、ためらいは一切なかった。
振り下ろされる刃は迷いを知らず、怒りと歓喜が半ばずつ溶け合った狂気だけが、その瞳の奥で鈍く燃えている。踏み込むたびに血が散り、クルセイダーの叫びは次々と断ち切られていった。
防ごうとした盾は砕かれ、反撃に転じる暇すら与えられない。フリードの前では、数も陣形も意味を失っていた。
その惨状の只中に、ヴェゼルが姿を現す。
その瞬間だった。
フリードののあまりにも圧倒的な暴威と、そこに並び立つもう一つの存在を目にしたことで、残っていたクルセイダーたちの動きが、ぴたりと止まった。
剣を振り上げたまま固まる者、半歩退いたまま息を呑む者。誰もが、次に何をすべきかを失っていた。
血の滴る音だけが、床に落ちる。
つい先ほどまで戦場を満たしていた喧騒が嘘のように消え、そこには、張り詰めた一瞬の静寂だけが訪れていた。
エスパーダはフリードの背後にぴたりと寄り添っている。戦いに直接加わらず、しかし剣撃を妨げないよう正確に位置をずらし続ける。
彼の表情は驚くほど静かで、むしろ眼差しには深い哀しみが宿っているようにさえ見えた。
その向こう、壁際では高位聖職者が二十名ほどだろうか、肩を寄せ合って震えている。顔は青ざめ、恐怖のせいか祈りの言葉すらまともに口に出来ないらしかった。
「な……なぜ、このような――!」
震えと絶望が混じった叫びが、血の匂いに混ざって掠れた。
フリードは剣の血を振り払って、肩越しにその声へ視線を投げた。
そして、ゆっくり、口の端を釣り上げる。
「勘違いするなよ。襲撃してきたのはお前らが先だっただろう? 俺はフリード・フォン・ビック――この名に聞き覚えはあるはずだ。先に売った喧嘩、いや先に売った戦争を、俺たちが買ってやっただけだ」
聖職者のひとりが震える声で叫んだ。
「あのビック領の悪魔……! 神をも精霊様をも恐れぬ所業――天罰が下るぞ!」
フリードは鼻で笑い、返す言葉は荒々しく、それでいて妙にはっきりしていた。
「お前らの信じる神も精霊も糞食らえだ。反吐が出る。そんなもん、俺がぶった斬る。逆らう奴は――全員な」
その宣告が終わる頃、背後の階段から駆け上がる金属の音が響いた。増援のクルセイダーが殺到してくる音だ。ヴェゼルは一段低い場所からそれを見下ろし、押し寄せる気配を睥睨し冷静に読み取った。
エスパーダが前へ進み出た。帽子を外し、口元を覆っていた布もゆっくり解く。露わになったその顔は、かつて聖都で誰もが見知ったこの教国の象徴たる顔そのものだった。
その姿を見た瞬間、クルセイダー達の足が止まり、逃げ腰になっていた聖職者達の膝が揺れる。
「私の顔を忘れてはいませんよね?」声音は穏やかだが、その奥には冷徹な光が宿っていた。
「今なら慈悲を与えます。武器を捨て、地に伏せなさい。命だけは助けましょう」
しかし、その慈悲は一瞬で踏みにじられた。
「エス…パーダ…様……。いや、違う!……だ、騙されるな! そやつはエスパーダを騙る偽物だ! 出会え! 出会え! クルセイダーは全員、こやつらを斬り捨てよ!」
高位聖職者の叫びに、クルセイダー達がまた後からゾロゾロと現れる。は迷いを断ち切るように剣を構える。百は超えるかと思われる軍勢が一斉に咆哮を上げた。
フリードは血塗れた顔のままニヤリと嗤った。
体躯から光が溢れ、聖魔法の身体強化が全身に纏わりつく。筋肉が震え、体が一回り大きくなり、剣にも白い輝きが走る。
「来いよ。まとめて相手してやる」
叫ぶと同時に、獣のような速さで中央に突っ込んだ。剣が一閃する。十名ほどのクルセイダーの胴体が鎧ごとまとめて二つに裂け、血が噴水のように天井へ舞い散る。
悲鳴は瞬く間に潰れ、死体が折り重なるたびに鈍い音が廊下にこだました。それは瞬く間の出来事だった。
ヴェゼルは階段を埋める兵の群れへ視線を走らせ、ひとつ息をつく。そして、迫るクルセイダーに声をかけた。
「今なら、まだ、逃げれるけど……逃げるわけないよね?」
左手を持ち上げ、淡く呟く。「収納……心臓」
次の瞬間、階段を駆け上がっていた兵達の胸が同時に跳ね上がり、口から大量の血を噴いて倒れた。何が起きたのか理解する暇もなく、階段はその場にうずくまるものと、転落する兵で塞がれ、血が流れる川のように広がっていく。
静寂が戻る。
だがその静寂は死の気配に満ち、まるでこの世界そのものが息を止めたようだった。
フリードの肩は興奮でわななき、エスパーダは深く目を閉じ、ヴェゼルはただ無表情で周囲を睥睨する。その姿はまるで、まだ見ぬ“中心部”へ向かう影の行軍のようだった。
彼らの進む先で、次の脅威が確かに待ち構えている――その気配だけが、場の風をわずかに震わせていた。
おう、、もう閑話含めると、413話目なんだ。。
100話程度で終わると思っていたのに。。orz。。




