第394話 襲撃作戦の開始09
ヴェゼルはそっと廊下の陰から覗き込んだ。
階段前には二名のクルセイダーが左右に分かれて立ち、鋭い目であたりを警戒している。フリードに目を合わせて、お互いが小さく頷く。……いよいよだ。
ヴェゼルは小さく息を整え、胸の内の迷いを容赦なく切り捨てると、廊下の中央へ小走りに出て、その場で膝をつき短く呻き、倒れ込んだ。
「――うっ……」
その動きは子供らしく見せるための計算で、わざとらしさを完全に排した自然な崩れ方だった。
不審に気づいたクルセイダーの片方が急ぎ足で近づいてくる。もう一人は階段から離れないまま、手をかけた剣にわずかに力を入れながらヴェゼルを注視する。
「おい、坊主。何をしている! そこを退け! さっさと立って消えろ!」
「……急に、この辺が……痛くて……」ヴェゼルは胸を押さえ、苦悶のふりを続ける。
クルセイダーは眉をひそめつつも、子供が苦しむ様子に迷いを見せた。
「ここは上位の方々がお通りになる廊下だぞ。下男風情が――いや……その様子では放っておくわけにも……」
彼は困惑し、判断を迷い始めていた。その瞬間、廊下の奥でフリードがわずかに口角を上げ、エスパーダに低く告げた。
「エスパーダさん。少し遅れてから来い。俺は先に行く」
言うが早いか、フリードは階段脇のクルセイダーへ一直線に駆けだした。
「な、何者――!」
問い終える前に、フリードの剣が振り抜かれ、一瞬で首が地面に落ち、周囲に血飛沫が舞う。後からゆっくりと体も地面に崩れていく。その兵の声は二度と響かなかった。
一拍遅れてエスパーダが追いつき、フリードの背後に滑り込むと、階段へ駆け上がる。
突如階段側の仲間が沈んだことで、ヴェゼルの脇にいたクルセイダーは動揺し、振り返って叫ぼうとした。
「なっ、何が――」
ヴェゼルはその恐怖の気配が生じた“瞬間”だけを狙うように、乾いた小声で呟いた。
「収納……心臓」
短く無駄がない。息のように発せられた言葉は、刃よりも冷たかった。
クルセイダーは口から「ごぼっ」と、大量の血を口から滴らせて、身体は理由を理解しないまま力を失い、その場へ崩れ落ちた。
その異様な急変に気づいた詰所から、十名ほどのクルセイダーが怒号とともに飛び出してくる。
「どうした! 何があった!」「敵か!」
ヴェゼルはすでに階段へ向かって走り出していた。その瞬間、ルドルフも影から躍り出た。
「父さん、先に行って! ここは俺が引き受ける!」
フリードは振り向き、一瞬だけ我が子を見た。その眼差しの奥で何かを瞬時に計算し、「後で会おう。任せた」と一言残すと、行く手を遮った兵士の首目掛けて軽く剣を一閃した。
まるで枝を払う程度の力で剣が横にすっと動くと、兵士の首がゴトンと音を立てて落ちた。
階段上へ消える父の背を見送り、エスパーダがその後を追う。
ヴェゼルは静かに階段前へ立ち、十名ほどのクルセイダーと対峙した。
兵たちは幼い少年が武器も持たず、犬を従えて片手に小さな箱を提げているのを見て、逆に不気味さを覚えた。
「犬連れだと? 貴様ら、何者だ! 目的を言え!」
怒声が飛んだ瞬間、ヴェゼルの脳裏に、ほんの一瞬、あの姉妹の希望もない瞳と表情がよぎった。
痩せて、声も上げられず、ボロの布を纏い、自分の持ち物は一抱えの荷物だけの姉妹。ただただ怯えていたあの二人。
埃にまみれた低民街の路地に捨てられ、救いの手など一度として届かなかったあの光景。
そして、彼女たちに手を差し伸べることもなく、搾取するだけ搾取した高位聖職者たちの笑みが見えた気がした。
そして、その“腐りきった秩序”を守るために剣を振るい、何も知らぬふりで従い続けたのが、いま目の前に並ぶクルセイダーたちだった。
(——お前たちの罪は、見て見ぬふりをしたことだ。お前らが盾になっているから、あいつらは平然と弱い者を踏みにじれる)
胸の底から黒い憎悪がじわりと湧き上がり、指先にまで重く染み込んでいく。一瞬だけ、ヴェゼルは目を伏せ、呼吸を整え、そして顔を上げた。
「……お前ら、まだ理解していないのか」
声は幼いのに、響きだけは古い老爺のように冷え切っていた。
ヴェゼルはゆっくりと兵たちを睥睨し、その視線は一人一人を突き刺し、空気ごと押し沈めた。
「俺はヴェゼル・パロ・ビック。その名くらい、聞いたことがあるだろう? お前らの同胞には……ずいぶん世話になったな」
言葉の端に、わずかな震え——怒りの余韻が混じった。
「あの“礼”を返しにきた。ありがたく受け取れよ、俺はとっくに教国へ宣戦布告している。今からはその続きだ。お前たちの“上”の者を……片付けに行く」
兵たちがざわつく。鎧の継ぎ目が鳴り、怒りとも恐怖ともつかない空気が走った。
「だから……邪魔するなら、ここでお前ら、この世とお別れだ」
「貴様……あの悪魔か! 仲間をよくも! ビック領の化け物め!」
怒声とともに踏み込もうとした瞬間、ヴェゼルはわずかに後ろへ一歩引き、左手を静かに持ち上げた。
ただそれだけで、十名の足が同時に止まる。幼い指先が、小さな箱を示す。
怒りに任せ突進しようとした瞬間、ヴェゼルは一歩足を引き、ほんのわずか左手を持ち上げた。
その怯えの揺らぎを確かに掴んだヴェゼルは、静かに告げた。
「——収納……両膝」
次の瞬間、その場にいた全てのクルセイダーの両膝が収納され、絶叫とともに兵士が一斉に倒れ込んだ。
体から離れた足が無惨に転がり、両足を失い地面に横たわる。そこに至るまでの音も、衝撃も、起点すらも誰の目にも映らない。ただ、血が止め処なく流れて、あっという間に床は血溜まりで染まる。
ただ、剣を構えていたはずの男たちが、理由を理解できず床へ沈んだのだ。
うめき声と叫びが混じる中、ヴェゼルは冷たい声で切り捨てるように言った。
「たったそれだけで喚くなよ。お前たちが俺たち…にしたこと……、そしてビック領の領民にしようとしたのは……もっと理不尽で、一方的で、救いの欠片もない暴力だったよな?」
一人の兵が震える声で言いかける。「や、やめてくれ……お願いだ…許してくれ……俺たち……俺は関係ない…」
「まだ“やめてくれる”とでも思っているのか? 関係ないかどうかは、俺が決めるんだよ」
ヴェゼルは哀れみではなく、興味すらない無表情で吐き捨てるように告げた。
「俺は慈悲深いからな。命だけは奪わない。だが――生きて償う道は残しとくよ。お前たちが今日味わう屈辱と無力……そして、苦しみ…それを抱えてせいぜい生きるといい。……名前は忘れたけど、騎士団長のゼトルフ?だったか…あれと同じ、ただの肉塊になれ」
そして、左手を再び箱へ添える。「収納……両肘関節」
声は小さく、静謐で、冷たい。
その宣告の直後、クルセイダーたちから抑えきれぬ悲鳴が響き、両腕が肉体から離れて、ただのモノとなり地面に無造作に落ちた。恐怖がその場を満たした。
そこには絶叫と血と絶望が周囲を支配した。後に残ったのは、自らは動くこともできない、生きた肉塊だけだった。
ヴェゼルは振り返らず、ただ一言だけ言葉を残す。
「もう終わりだ。……ここからの人生は、自分で這いつくばって進め」
悲鳴を背に、ヴェゼルは隣にいるルドルフの頭をひと撫でしてから、階段をゆっくりと登り始めた。
その背中は幼いはずなのに、誰よりも冷たく、誰よりも高いところにあるように見えた。




