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第392話 襲撃作戦の開始07

地中を抜けてきた冷気は、穴の出口でかすかな白い息となり、夜気にすぐ溶けていった。


ヴェゼルが先に顔を出す。しんとした空気に雪は沈み、人影の揺らぎもない。巡回の影が遠ざかるのを確かめると、彼はわずかに息を吐き、二人へ手を振った。


フリードとエスパーダが土の匂いを含んだ空間から這い上がる。三人の足元に開いた穴は神殿倉庫の影に隠れ、この一点だけは巡回兵の視界が届かぬ“死角”だった。


ヴェゼルは素早く板を置き、周囲の土を崩して覆う。掘削の跡は瞬く間に雪面へ溶け込み、外からではただの凹凸にも見えない。撤退の道も、これで保たれた。


「……ここからが本番だぞ」


フリードが低く呟く。言葉に張りついた緊張は重く、あの日ビック領を襲った教国兵への怨嗟も、まだ熾き火のように胸の底で燻っていた。


本来、神殿への侵入など不可能に近い。だが巡回兵の交代の隙、そして――教国が積み上げてきた慢心が、皮肉にも三人の足元を支えていた。


「正面は避けるべきでしょう。あそこはいきなり最低でも数十……いや、百以上と刃を交える羽目になります」

エスパーダの声は冷ややかで、よく知る神殿への失望が滲んでいる。


「右へ百メートル。下男下女の通用口があります。警備は形ばかりの一名です」


問題はフリードだった。どう苦心しても“働き手の大男”にしか見えず、布で包んだ剣は掃除道具に見せかけたつもりでも、むしろ怪しさを増していた。


それでも、進むしかない。三人は倉庫の影から歩み出ようとした。


そのときだった。


雪を蹴る柔らかな音とともに、小柄な影が後方からすっと寄り添う。


綺麗な毛並みを揺らし、ルドルフがヴェゼルの外套の端をつまんで頬を押し寄せた。ヴェゼルは瞬きし、フリードは喉の奥で呻き、エスパーダは思わず眉を押さえた。


「……ルドルフ、なぜここに……」


問いかけようとするより早く、ルドルフの念がヴェゼルに流れ込む。


『家で待つのつまらない、最近ヴェゼル、構ってくれなかった。ヴェゼル、守りたい、一緒に行く』


ヴェゼルはこめかみを押さえたくなる衝動を抑えた。


本来なら、この後、フリードとヴェゼルの戦闘がひと段落したら、フォルツァ商業連合国の“公式外交使節”のプレセアと、“商業連合国の武官”のソニアとして、後からヴェゼル達と合流する段取りだったのだ。


彼女らが“国際的記録の証人”となり、今回の行動が正当な戦争行為であると立証するために。


その護衛こそ、森の王シャノンと森の女王ルドルフ――のはずだった。


だがルドルフの念は続く。


『シャノンとまた喧嘩、プレセアとソニア、俺一人で守れる、言われた、腹が立った、飛び出してきた』


フリードは天を仰ぎ、エスパーダは深く息を吐いた。


「……戻れとは、今さら言えませんね。もう神殿の間近です」


エスパーダの皮肉混じりの囁きに、ルドルフは満足げに頷いた。


かくして、想定外の“女王”を一人抱えたまま、三人は四人?となって通用口へ進むこととなった。ルドルフは虚空を見つめてから一声小さく鳴くと、スッとその体をヴェゼルの影に溶け込ませた。


すると、ヴェゼルの影に潜んだルドルフの念が送られてくる。


『ヴェゼルの影、落ち着く、もう出たくない』。ヴェゼルは胸中で静かに嘆息した。


雪の冷たさよりも、これから始まる喧噪のほうが、はるかに頭を悩ませるのだと感じながらも。



そしてフリード達は行動を開始した。


下働きらしく速すぎず遅すぎず、表情も動きも控えめに保つ。走れば怪しまれ、堂々とすれば逆に目を引く。呼吸の間でさえ、警戒の糸を張り巡らせねばならなかった。


通用口に近づくと、兵士がひとり、下女が兵士に媚を売り談笑していた。笑い声が漏れ、警備としてはあまりに緩い体勢だった。好機ではあったが、同時に最も危うい状況でもある。


油断している兵は、違和感に敏く、些細な変化に反応しやすい——経験上、そういうものだ。


三人が頭を下げ、通り抜けようとした、その瞬間。


「おい、そこの男。止まれ」


空気が凍りついた。呼気が喉で止まり、ヴェゼルの指先はバッグの中の収納箱に触れた。フリードも剣を抜く寸前まで力を込めている。あと一歩で血が流れる緊張の線が結ばれた。


兵士の視線は、エスパーダの“揺れた袖”にあった。片腕の下男などそうはいない。


「腕のない下男なぞ、見たことがないが?」


その声は疑念よりも好奇の色が濃かった。しかし好奇心ほど手強いものはない。


エスパーダはすぐに答えた。声は下働きらしい卑屈さを演じつつ、礼を忘れていない。


「本日より働きます、エステートと申します。エコニック様の侍女の……フェートン様よりご紹介いただきまして」


兵士は一瞬きょとんとした顔をしたが、下卑た笑みを浮かべた。


「ああ、あのフェートンさんか。ありゃあ……いい身体をしてるよな」


フリードの眉がぴくりと動いた。だが耐える。ここで一振りでもすれば、すべてが終わる。


エスパーダは曖昧に笑う。兵士は下女と顔を見合わせ、下品に笑った。


「まあ、男だったら我慢できんよな、あれは。……ん? そういやお前、誰かに似てるな」


下女がぽつりと言った。「あんた、……破門されたエスパーダ様に似てるわね」


空気が震えた。兵士の目が細くなる。


「エスパーダ様はもっと格好よかっただろ。……いや、待て。たしか、あの方も片腕になってたな」


ヴェゼルの背中に冷汗が伝う。フリードは剣を抜くべき位置をもう計っていた。エスパーダはわずかに息を呑み、次の言葉が出てこない。


その刹那——


「あら! こんなとこにいたのですか!」


明るく澄んだ声が通路に響いた。フェートンだった。彼女はあえて早足で近づき、兵士に向けて微笑む。


「ずいぶん遅いではありませんか。エコニック様が、掃除の者が来ないと仰っておりましたので、探しに参ったのです」


兵士は鼻の下を伸ばし、すっかり警戒を解いた。


「おお、フェートンさん。今日も……お美しい」


「ありがとうございます。こちらの下男は、聖女様が片腕で仕事がないと途方に暮れていたので、お情けで今日から働くことになっておりますの」


言葉の織り方は見事だった。“聖女様”の名を出されて、兵士はもう疑いを挟めない。彼のような末端の兵が、聖女やその周辺の判断に逆らえるはずがなかった。


フェートンはエスパーダの腕を取り、柔らかく引いた。


「では、失礼いたします。エコニック様がお待ちです。参りましょう」


兵士は煩悩を滲ませた笑みを浮かべたまま、二人を見送った。


三人は通路の奥へ進み、角を曲がった瞬間にようやく息を吐いた。足元の石畳に落ちた汗が、白く乾いた蒸気となって消える。


危うく兵士の首が飛んでいた——一歩の誤差で。


だが潜入は、まだ始まったばかりだった。

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