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第390話 襲撃作戦の開始05

低民街へ続く道は、城壁の影の下に沈んでいた。


太陽は高い位置にあるはずなのに、その光は一度もこの地を照らさない。冷気だけが風とともに流れ込み、乾いた土埃とほつれた布の匂いをかき混ぜる。


壁に寄りかかる痩せこけた大人たちの目は乾ききり、幼子は地面に座り込んだまま動かず、遠くを見つめているだけだった。


腐った何かの残骸が散乱し、端材や破れ布を紐で括っただけの小屋が並んでいる。それは“住むための建造物”とは言い難く、寒さと雨風を辛うじて避けるために無理やり積み上げられた残骸の群れでしかなかった。


ヴェゼルは胸の奥に何かの感情が湧き上がるのを感じた。聖都の壁の内側にある貧民街でさえ、木の家として形を保っているというのに――そのさらに下、最底辺がここなのだと思い知らされた。


姉妹に手を引かれ、“家”と呼ばれた場所の前に立つ。そこにあったのは、傾いた板きれに破れた布と藁が貼り付けられただけの、夜露すら防げぬ粗末な囲いであった。


風が吹くたび布がはためき、隙間から冷気が容赦なく吹き込んでいる。ヴェゼルは深く息を吸い込み、冷えた空気で胸が痛むのを感じた。


その時だった。遠くの路地を、鉄靴の硬い打音がゆっくりとこちらへ近づいてくる。巡回兵の歩調だ。それはこの区域ではよく響き、逃げ場のない者たちには死神の足音のように聞こえるのだと悟らされる。


姉妹の手がぶるりと震えた。姉が小さく息を飲み、妹の肩を抱き寄せる。二人の顔から血の気が引き、目は怯えのまま固まっていた。


「だ、だめ……来る……」「また叩かれる……もう…痛いのは…いや…」


ヴェゼルは眉をひそめた。兵士の影はまだ遠い。だが姉妹はその場に縫いつけられたように動けず、靴音が近づくたびに震えが強くなっていく。


この姉妹は兵士の気まぐれ一つで命を脅かされる世界に生きている。ヴェゼルは二人の肩にそっと手を置き、囁く。


「こっちだ。ついて来きて」


抵抗はなかった。子らは力なく引かれるまま、ヴェゼルとエコニックの手にしがみついた。彼らはすぐ横の、布と板の隙間が大きく開いた小屋に身を滑らせる。


内部は冷たく、饐えた臭いが鼻を刺したが、外よりは僅かに暗く、足音から隠れるには十分だった。


四人は息を潜める。姉妹は震えながらヴェゼルとエコニックの外套を握りしめ、目を閉じた。


すぐ外を、兵士の足音が通り過ぎていく。何かを蹴る音、鼻で笑うような声。だが幸いにも、こちらへ目を向けることはなかった。


やがて音が遠ざかっていき、低民街の静寂だけが戻る。


過去にここで――ただ姉妹で寄り添って座っていただけで、“汚い”“邪魔だ”という理由だけで殴られ、蹴られたのだと、姉が怯えながら言った。


その語りは震える声で途切れ途切れだったが、そこに刻まれた残酷さは十分すぎるほど伝わった。


「……あの人たち、いつも笑ってたの……。私たちを見ると、『掃除の時間だ』って……」


姉の瞳が過去を映すように揺れる。


「最初は……髪を引っ張られて……引きずられて……。泣いたら、もっと笑われたの。『泣くと面白いな』って……」


続く言葉の前に、妹が小さく身体を丸めた。


「倒れたら……靴で何度も踏まれて……『ほら、声が変わったぞ』って……。妹を庇ったら、背中を叩かれて……何回も……」


姉はそこまで言うと、呼吸が乱れ、声が掠れた。


「“汚れるから触るな”って言って……殴った手を払いながら……ずっと笑ってた……。ただ、座ってただけなのに……」


その言葉は嗚咽のように細く消え、彼女の肩が震えた。ヴェゼルは静かに目を閉じ、胸の奥で何かが確実に軋んだ。


ただの暴力ではない。“楽しみのための迫害”だった。そして、それを止める者は誰一人いなかったという。


姉妹の涙を見ながら、ヴェゼルの中で怒りはゆっくりと、しかし深く沈殿し、後に燃え上がるべき炎へと姿を変えていった。


ヴェゼルは小さく息を吐き、姉妹の頭を軽く撫でた。


「もう大丈夫」


その瞬間、二人の肩から強張りが落ち、涙の跡が静かに頬を伝っていた。彼は胸の内で、怒りとも悲しみとも判じがたい熱が、ゆっくりと静かに燃え上がるのを感じた。


「……荷物を全部持ってきて」


姉は一瞬だけ迷ったように見えた。だが、今さら荷物を隠す理由も、疑う余裕もないのだろう。


静かにうなずき、囲いの中に入り、小柄な身体で持てるだけの布包みを抱えて戻ってきた。そうは言っても、大人だと片手で持てるくらいの量しかない。しかし、これが彼女らの全てなのだ。


包みを開くと、折れかけの短剣、古びたカチューシャ、汚い布が数枚。そして――紐でぐるぐるに縛られた布切れの物。よく見ると、かすれた墨で“目”が描かれていた。


妹がそれを大事そうに抱きしめて離さない。


ヴェゼルが「それは?」と問うと、姉が少し恥ずかしそうに呟いた。


「……妹がね、寝るときに抱いてる……お人形さん……」


丁寧に折り畳まれ、汚れていても手入れの痕跡だけは確かにある。


この荷物が彼女たちにとっての“世界の全て”なのだと、一目で見てわかった。エコニックは言葉を失い、少し震える手で姉妹の肩に触れただけだった。


その沈黙が、彼女が抱いた衝撃の深さを物語っていた。


姉妹を連れて低民街の外れまで進む。


さらに奥へ進むと、人の気配が途切れ、広い空き地が口を開けていた。薄く雪が積もり、辺りは凍てついた静寂に支配されている。吐息すら白く、すぐに形を失った。


ヴェゼルは周囲を見渡した後、左手にある収納箱を掲げた。


「……共振位相」低く、地を揺らすような音が響き、箱の奥から土が溢れ出す。


土は空中でゆらりと形を変え、一・五メートル四方の立方体へと変じていく。一方面にだけ小さい穴が空いている。固く圧縮された土壁には、雪が触れた途端に溶けて滴り落ちた。


姉妹はその変化を理解できず、ただ呆然と目を見開くしかなかった。


「今日から……ここが君たちの家だよ。これで寒さはこれで凌げると思う」


ヴェゼルの声は静かだが、その奥には抵抗できない強さがあった。姉妹は互いに顔を見合わせ、搾り出すように尋ねた。


「……ほんとうに……住んでいいの……?」


ヴェゼルが確かにうなずくと、二人は恐る恐る立方体の中へ足を踏み入れた。中は暗いが圧縮された土は冬でもほんのり温もりを残し、風も雪も遮る。


姉妹の肩が、ふっと落ちた。緊張を初めて緩めたようだった。


ヴェゼルはさらに収納箱から土を取り出し、次々と家を作っていく。低民街の外れに、立方体の“人の住む空間”が並び始めた。


聖都の影の底に、初めて“形のある居場所”が生まれ始めていた。


エコニックはその土の家に入ると、姉の頬に手を添え、静かに聖魔法を流した。


爛れた皮膚がわずかに和らぎ、赤くただれていた部分が落ち着きを取り戻す。痛みは消えたが、薄くなった髪だけは戻らない。


エコニックはその事実を悟り、少女の手をそっと握った。


ヴェゼルは収納箱から毛布とパン、それに琥珀色の瓶を取り出した。瓶の栓を開けると、かすかに甘い香りが漂う。


「毛布とパン……それからメープルシロップ。これは毎日、少しずつ舐めて。身体が……少しずつ元気になる」


妹は人形と瓶をぎゅっと抱きしめ、潤んだ瞳に小さな光が宿る。


それは雪の白さよりも強く、確かな温もりだった。空から、柔らかな雪が降り始めていた。


その白さの下で、姉妹の小さな鼓動だけが、確かな命のぬくもりを生んでいた。


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