第388話 襲撃作戦の開始03
施術院の扉を押し開けた瞬間、影が弾丸のように飛びついてきた。
ルドルフか、シャノンか、それともサクラか。そう思ったヴェゼルの予想は、盛大に裏切られた。
「ヴェゼルちゃんっ、おかえりなさいませぇーーっ!!」
やわらかい衝撃波が顔面に直撃する。――バイン。と、説明不要の音が鳴った。
息が詰まるほどの柔らかいモノものに押しつぶされながら、ヴェゼルの視界にはフェートンの胸が誇らしげに揺れていた。対してヴェゼルの頭は、その谷へとズブズブ沈んでいく。
重力がそこだけおかしいのではないかと思うほどに。
背後で、プレセアが「くっ……!」と、妙に刺々しい息を漏らしているのが聞こえたが、ヴェゼルは聞かなかったことにした。反応すれば、間違いなく火種が広がるから。
さらに奥では、ヴェゼルの迎えに出遅れたサクラとルドルフとシャノンが、地団駄を踏んで悔しがっていた。それを見ていたフリードもエスパーダも苦笑いをしていた。
そこにルドルフの念が、風のように飛んでくる。『ま、負けた……! 私より、早いなんて……!』
ようやくフェートンの胸から顔を押し出し、息を大きく吸い込んだヴェゼルは、真剣な声音に戻して問いかけた。
「フェートンさん……お出迎え、ありがとうございます。ところで少し伺いたいことがあります」
「は、はいっ! な、なんでも!」
勢いよく離れ、背筋を伸ばすフェートン。その表情にまだ照れが残っていたが、ヴェゼルの声音が落ち着いているのを見ると、空気がすっと張りつめた。
「城門の外で……粗末な服を着て、病気のように見える子供たちを見ました。なぜ、あんな場所に……?」
問いの瞬間、フェートンの顔から笑みが消えた。伏せられた睫毛が震える。
「……聖都には、“壁の内側に入れる者”が決まっております。聖職者、市民権のある者、通行証を持つ村人。それから、許可を買える商人や旅人です」
ヴェゼルは静かに続けた。「つまり……それ以外は?」
フェートンはゆるく首を振った。
「内側には……入れません。貧民街の者でさえ、教国籍があるから最低限の施しを受けられるんです。けれど、何も持たずお金のない者は……門前で追い返されます」
フリードがわずかに口を開く。
「追い返された人々は、どこへ向かうんだ?」
「行き場はありません。だから、城壁の影の奥に……本来“人が住むことを想定していない一帯”に、小さな集落ができます。“低民街”と呼ばれる場所です。教国の保護は……一切ありません」
ヴェゼルの脳裏に、雪の中で震えていた姉妹の姿が浮かんだ。
「……じゃあ、あの姉妹も?」
「ええ。あそこは……人買いが巡回する区域です」そこでフェートンは言葉を詰まらせた。
フリードが代わりに問いを重ねる。
「人買いが、子供を……?」
「はい。買われれば、酷い扱いを受けても……“生きる”ことだけはできます。働かされ、殴られても、食べ物は与えられますから」
ヴェゼルは眉をひそめた。「……じゃあ、買われなかった子は?」
フェートンの喉がひくりと震えた。
「買われなかった子は……そのままです。“残される”だけです。この季節に残っている子は、“買われなかった子”……つまり、生き延びる力が尽きかけている子です」
ヴェゼルは小さく息を呑んだ。「病気だから……働けない?」
「はい。あからさまに病を抱えた子は利益になりません。薬代がかかりますから。だから商人は手を伸ばしません。あの区域は、風向きが変わるたび、死臭が流れてくる場所です。雪の日などは……」
フェートンは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「……朝に歩いていた子が、夕方にはうずくまったまま、動かなくなっていることも……珍しくありません」
エコニックが胸元を押さえた。「……そこまで、酷いとは……聖都にいて…私は何も知らなかったわ」
「詳細なことはエコニック様には話してはいけないと止めれれていましたから。申し訳ありません」
フェートンが謝る。そして話を続けた。
「栄養が足りないんです。まず“温かさ”がありませんから。服は薄くて穴だらけ。袖も、靴も、揃っていません。手足は紫に変わり、ひび割れた皮膚は血が滲みます。寝床は、土と板の隙間に濡れた藁を押し込んだだけ。冬の藁は凍ると石より硬くなるんです。その上で眠って……生きて朝を迎えられない子が、どれほどいるか」
ヴェゼルは重い呼吸をひとつ落とした。
「食べ物は……どうしているんですか?」
フェートンは苦い表情で首を振った。
「拾うか、盗むか、待つか……それだけです。拾えるのは、動物の死骸、腐りかけた野菜の切れ端。盗めば大人に殴られます。待つと言っても……ほぼ誰も施しには来ません」
「……残酷だな」
「残酷です。だから、あの子たちのような小さな子は……“死んだ家の残り物”を漁るんです。布切れ、煤けたパン、濡れた藁……。生き延びた日数は、そのまま“強運だった日数”に過ぎません」
エコニックは震える声で問うた。
「……その妹が粗末な人形を抱いていたんだ…」
フェートンの目がわずかに揺れた。
「……唯一の“温かいもの”だったのでしょう。ああいう子は……胸に何かひとつ抱いていないと、夜を越せないんです。孤独と寒さで……眠れなくなりますから」
ヴェゼルは唇を結んだ。「……では、あの姉妹は」
「冬が終わる前に淘汰されてしまうでしょう。死因は、寒さ、飢え、病……どれも珍しくありません。治す手段が、どこにもないんです。痒み止めもない。傷を覆う布もない。飲み水は、汚れた雪を溶かしたものだけ。腹を壊せば、もう……」
フェートンは一度、言葉を断ち切り、深く息を吸った。
「以前、エコニック様が治療を施されたことがありました。しかし――」
彼女の声は、悔しさにひび割れた。
「“聖都の民でない者に、麦の一粒すら与えるな”……総主教様に、そう叱責されたのです。それ以来……近づくことすら許されません」
そして、吐き捨てるように囁いた。
「助けられない子は……雪の下のほうが、まだ温かいのかもしれません。でも、私にはどうすることもできません」
施術院の空気が、冬の夜より冷たく沈黙した。
ヴェゼルは拳を握りしめ、エコニックは目を伏せる。雪の冷たさより冷たい現実が、静かに落ちていった。
胸の奥では、あの姉妹の影が消えずに残っている。
生まれただけで死を選ばされる世界。誰にも手を伸ばされない小さな命。
――敵は教国。だが、あの子供たちは敵ではない。
ヴェゼルの思考は、雪の底のように静かに沈みながら、確かな決意だけを孕んでいった。




