第383話 土の精霊のおじさん03
部屋に落ち着いた空気が流れ始めたころ、沈黙を破ったのはサクラだった。
何かを誤魔化すような、しかし場を明るくしたいという小さな気遣いも混じった声音で、ヴェゼルの袖をちょんと引く。
「ねぇヴェゼル、美味しいお菓子、出して?」
ヴェゼルはわずかに目を細め、苦笑で応じた。「……クッキーでいい?」
しかしサクラは胸を張って即座に否定した。
「だーめ! ヴェゼルの収納箱に何が入ってるか、私は全部知ってるのよ。私の目につかないように、ずーーっと奥の方に“とっておき”の甘いものがあるでしょ! そ・れ・に、あの本棚の横の箱の中にあるアビーのパ…………」
「ギャー!!! わかったよ! わかったからそれ以上は言わないで! お願い!!!」
ヴェゼルは、あまりのことに気が動転して、その後肩を落とす。
小さな声で「両方とも……隠しておいたのに……」と漏らすと、観念したように手をかざし、白い生クリームの上に紫や赤の実がのっているホールケーキを取り出した。
エスパーダやグロム達の結婚式で作った、甘いベリーと生クリームがたっぷりとのった贅沢なひと皿である。
ちょうどその時、エコニックが湯気の立つ茶器を手に戻ってきた。彼女は皆の表情を見て、小さく笑みを浮かべる。
なにかわからない薬草のような香りがふわりと満ち、ようやく空気が落ち着きを取り戻す。
「そろそろ喉が渇いておられるでしょう? お茶の用意ができました。……あら? どうやら、ちょうどおやつの時間のようですね」
サクラはケーキを見た瞬間、輝くような声で宣言した。
「私、このケーキで溺れてもいいくらい大好きなのよ!」
そのあまりにも物騒で無邪気な言葉に、土の精霊ですら目を瞬かせた。
だが次の瞬間、甘い香りが土精霊の鼻孔をくすぐり、土色の顔が興味に染まる。
「む……こ、これは……? なんと芳しい香りじゃ……!」
仕方がない、とヴェゼルは皆の取り皿にナイフを入れていく。
そして、まだ戻っていないフェートン、プレセア、ソニアの分もきちんと切り分けて皿に避けておいた。
先陣を切ったのは、もちろんサクラである。一口食べた瞬間、妖精の羽がぱっと震え、声が弾けた。
「おいしー!!」
その叫びが合図となり、他の面々も静かに、そして満足そうに口へ運んでいく。
土の精霊は頬を染め、感嘆の息を漏らした。
「こ、これは……! 土の上の世にも、こんな喜びが眠っておったとは……はじめて食べる味じゃ!」
フリードも、エコニックも、エスパーダも、それぞれの仕草で美味を噛みしめている。
その様子を横目に、サクラは誰にも気づかれぬよう小さな指を伸ばし、皿の端に転がったベリーをそっと摘んで口へ運んだ。
まるで宝物を隠れて味わう子どものように、嬉しそうに頬を膨らませながら。
静かな家の中に、甘い香りと小さな幸福が満ちていった。
エコニックが「まずは口直しに」と涼しい顔で茶を口に運んだ。先程エコニックが茶葉の匂いを嗅いでいたのを見て訝しんでいたヴェゼルはひそかに胸を撫で下ろした。
ならば安全だろう──そう判断して、自らも湯気の立つカップを手に取った。
次の瞬間、舌に触れた液体が、あまりに衝撃的な“不味さ”で脳天まで駆け上がってきた。現世で言う『ドブのような匂いとそのような味』がしたのだ。
吐き出すか、死ぬ覚悟で嚥下するか、もういっそ死んでしまおうか、そのどれかでしか逃れられない味だった。
しかしヴェゼルは必死にそれらを拒否し、震える唇を押しとどめて、そっとカップへと戻した。周囲を見ると誰も気づいてはいない。それが唯一の救いだった。
このお茶の不味さを周知しないと。と、思った矢先、彼の冷静な努力は一瞬で粉砕される。
フリードが豪快に茶を飲み干したのだ。
ごくり、と喉が動き――次の瞬間、顔が土色に変わった。
「ぐぼぁっ!!!」
盛大な噴射が、横にいたエスパーダの顔面を直撃した。
いつも冷静なエスパーダが、よりによってケーキを半分残した状態でお茶まみれになるという惨劇である。
水滴がぽたぽたとケーキへ落ち、台無しになった皿を前に、エスパーダは微動だにしなかった。
怒りのあまり固まった石像のように。
フリードは青ざめながら「エスパーダさん……ごめんな……」と小声で謝るも、返答はない。
むしろ、目すら合わせてもらえない。
そんな中、エコニックは「あらフリード様は咽せたのですか」と涼しい顔で呟き、再び茶を口にする。
「ん……やはり独特の風味。でも深い味わいがありますね」
その平然としたその表情に、お茶を口につけたヴェゼルとフリードは言葉を失った。
続いて土の精霊が、興味本位で茶を啜った。
一口だけなのに──固まった。
もはや彫像である。
そこへ外からフェートンが戻ってきた。
「まあ! おやつですか? あら、ヴェゼルさん、私の分もあるのですね?」
ヴェゼルは返事の代わりに無言で皿を差し出した。
フェートンは嬉しげに受け取り、ソファに腰を下ろしてよほどお腹が空いていたのか上機嫌にケーキを食べ始めた。
「ご報告がありますが……まずはケーキをいただいてからにしますね」
彼女の朗らかな声とは裏腹に、部屋の空気は“あのお茶?”のせいで重く沈んでいる。
フリードは気まずさで縮こまり、エスパーダは無言のまま震え、土の精霊は動かない。
ヴェゼルは飲んだふりのまま固唾を飲む。
サクラ、ルドルフ、ソニアだけが賢明にも茶には手を出していなかった。
そしてケーキを半分食べ終えたフェートンが、呑気な表情で茶に手を伸ばした、その瞬間。
彼女の手がぴたりと止まる。
「……エコニック様、このお茶は?」
エコニックは胸を張って、まるで褒められたかのように答える。
「台所の棚の奥にあったものです。変わった風味ですが、深みのあるお味で……」
フェートンは目を見開き、叫んだ。
「えええええっ!! それは、前の薬師様が置きっぱなしにしていったものですよ! 念の為に貴重な薬草かもしれないので、取っておいたものです。薬師様が亡くなって七年以上経つのに! ということは、少なくとも七年以上前の物なのです! そもそもあれはお茶でさえない物かもしれない! あんな得体の知れない物を飲んだら死ぬかもしれませんよ!」
エコニックの顔色が、ゆっくりと蒼白へと沈んでいく。
「……す、すみません。確かに風味は変わっているなとは……」
ヴェゼルは悟った。
エコニックは聖女だし、人望もあるのだろう。そして賢い──だが、味覚だけは世界の理から外れているのだと。
かくして、聖女エコニックによる“無自覚毒物事件”は幕を下ろした。
生き残ったのは、サクラ、ルドルフ、ソニア。
そして飲んだふりを貫いたヴェゼルだけだった。口の中は多大なダメージを負ってしまったが。
エスパーダはお茶を全身に浴びたので、生き残ってはいない。
あの味は一生忘れないだろう。皆の記憶の中に。




