第380話 遭遇
フリードはヴェゼルが掘り進めた穴の縁に片足をかけ覗き込んだ。
微かな湿気がふわりと上がり、土の匂いが鼻をかすめる。重い腕組みのまま、低く言った。
「……実際に入ってみないことにはな。どれほどの幅があるか、俺の身体で確かめた方が早いな」
その声音は、ただの確認というより、己の目で見なければ気が済まないようだった。
ヴェゼルは淡々と頷き、倉庫にあった縄梯子を押さえながら身を引く。
「頭上だけは、少し狭いと思いますよ」
フリードは息を短く吐き、肩をすぼめて降り始めた。
七十センチ幅の通路は、横には余裕があるものの、天井はしゃがんでも頭に迫るように低い。小柄な者ならばさほど気にならない狭さも、フリードのようなのえ上げられた身体には窮屈そのものだ。
地に足を付けた瞬間、フリードは首をひねりながらうっすら苦笑した。
「……まあ、これくらいなら、這って通れないことはなさそうだな。俺の肩幅を基準にすれば、エスパーダさんも問題はないだろう」
それでも彼は、すれ違いや休息に難儀するであろうと判断したのか、奥を指差した。
「途中に、ひとつ広い空間を作ってくれないか? 何かあった時の退避場所としても使えそうだ。七十センチじゃ、ひっくり返ることもできないしな」
ヴェゼルはその提案に頷いた。
「そうします。強度も、その場所だけ補強を厚くしておきますね」
そうして二人が床下の二メートル四方の空間へ戻り、次の工程を話していたまさにその時──
頭上の穴の入口から二つの黒い影が、まるで弾かれた矢のように飛び込んできた。
ルドルフとシャノンだ。
着地と同時に、二匹は東──神殿のある方向へ身体を向け、ルドルフは毛を逆立て牙をむき出し、低い唸りを響かせた。シャノンは尻尾をピンと立て、倍以上に膨れている。空気がわずかに震えたように感じられるほど、緊迫した声音だった。
『ヴェゼル! なにか来る!』ルドルフの念話は鋭く震えた。
シャノンもそれに重なるように叫ぶ。「みんな、構えて!」
その言葉と同時に、地面がかすかに沈むように揺れた。
揺れは短い。しかし、それだけで十分だった。空気の密度が変わり、目に見えぬ何かが室内に入り込んだような圧迫感が走る。ヴェゼルの胸元に潜んでいたサクラも、怯えたように震えながら叫んだ。
「や……やだ……! なんか来る、……精霊?」
そして──土が鳴動した。
本来音を持たぬはずのものが、確かに音を立てたのだ。
形を持つ前の土が自らを押し広げるような、低く湿った響きが空間全体を満たし、床下の土が盛り上がったかと思うと、次の瞬間にはそれが“形”になった。
土塊が人の姿を成し、厚い胴、どっしりとした脚、そして頑丈な髭を揺らす壮年の男がそこに立っていた。大地がそのまま生き物になるとは、こういう姿なのだろう。
「──我が土の領域を、勝手に穿つとは……何者だ」
声は、地の底から響くように重く、湿り気を含み、ひとつ響くだけで空気が震えた。
「我に断りもなく、この聖都で穴を掘り進めるとは、許しがたい」
そこにいたのは、紛うことなき土の精霊だった。
ルドルフもシャノンも毛を逆立て、フリードは鋭く剣を構え、エスパーダも即座に片腕で短剣を握った。武器を抜く音がひとつ混じっただけで、空間は一挙に戦場へと傾いた。
だが──
「やめてっ!!」
ヴェゼルの胸元から飛び出したサクラが、羽根を震わせながら精霊と仲間たちの間に割って入った。
小さくも強い声だった。
土の精霊はその光景に見開いた目を狭める。
「……ほう、妖精。むぅ……その気配、闇……の妖精か。珍しいこともあるものだ…」
精霊の声音は更に低く深くなり、周囲の空気が重く沈む。
ヴェゼルはその圧に耐えながら両手をゆっくり上げた後に、頭を深く下げた。
「すみません。断りもなく掘ってしまいました。事情があったにせよ、無断は無断です。この辺はあなたの領域だったのですね」
その直後、上から梯子が揺れ、土を踏む音が続いてエコニックが降りてきた。白い衣に土がついても気に留めないまま、彼女は精霊へ視線を向けた。
精霊はその姿を見ると、鼻を鳴らすように低音を響かせた。
「ほう……お前が、聖が“気にしていた”という聖女か」
エコニックはただちに地面に膝をつき、深く頭を垂れた。
「土の精霊様。無礼を働き、心からお詫び申し上げます。ですが……今の教国を正しい方向へ導くため、どうしても──」
しかし精霊はその言葉を未然に断ち切った。
「政治には興味はない。それは人の争いだ。そんなことよりも……掘ったのは、お前さんか?」
その眼がヴェゼルへと向けられる。ヴェゼルは嘘をつく意味もないと悟り、静かに頷いた。
精霊は腕を組み合わせるように動かし、低く唸った。
「我に気取られず、ここまでの深さを、これほどの速度で掘り進める者など信じられぬ。土の魔法ですら、ここまで急激には無理よな。……どうやったのだ?」
ヴェゼルは少し考えた後、言葉を選ばずそのまま真実を答えた。
「収納魔法で土を吸い込みながら掘り進めました」
「……収納魔法、闇の眷属の術よな。なるほど、面白い使い方をするのう……ふむ」
精霊は一瞬黙り、ふと、ヴェゼルの左手を見つめて動きを止めた。
薬指に光る白銀の輪──ヴァリーとの指輪。
精霊は歩み寄り、指先をその手でそっと摘んだ。冷たさよりも、どこか温い大地の感触があった。
「珍しい金属よのう……この光沢、白金…プラチナか……この国ではめったに見ぬ。お主がこれを?」
「プラチナという金属ですよね。自分で生成して、鍛えて作りました」
土の精霊はその輝きをじっと覗き込み、わずかに目を細めた。
「プラチナ……地の底、火と土が溶け合う境の、さらに奥深くにわずかに眠る金属か。わしでさえ、ほんの少量しか持たん。
……じゃが、この割合……それにこの量……それが違えばこれほどの硬度は出ないじゃろう。人が扱ったものとは思えんのう」
土の精霊はさらに続けた。
「この金属に魔力を込めてな、散らさずに保持させて、それに闇の妖精の涙を垂らせば、“ミスリル”になる──古い言い伝えよ。真か嘘かは知らんがのぉ」
その声は、どこか愉しげですらあった。これは誰に聞かせるでもなく発した言葉なのだろう。
戦の気配はもはや完全に消えていた。
エコニックが静かに口を開く。
「もしよろしければ……地上に上がって、お話しできませんか? 土の精霊様」
サクラがすかさず羽をふるわせながら言った。
「そうよ! 私のヴェゼルのお菓子はすっごく美味しいの! 人間のお菓子なんて食べたことないでしょ!」
その一言で、精霊の髭がわずかに揺れた。
「……ふむ。土の匂いが濃いこの場所は我には心地よいが……まあ、人間はそうでもなかろうて。それに、食べたことのない菓子とやら……それからその金属の話……聞く価値はありそうじゃ。よい、どこでも構わんぞ」
精霊はそう言ってゆったりと身体を揺らした。
思いもよらぬ訪問は、思いもよらぬ形で戦いを回避し、気づけば、彼らは土の精霊と同じ空間で息を整えていた。
これより始まるのは、脅威ではなく──対話であった。




