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第379話 穴を掘る

元は薬師の家であったその小さな部屋に身を落ち着ける暇もなく、ヴェゼルたちはすぐに動き始めた。


埃はあるが、どこか手入れの気配が残る温かい空気の中で、ヴェゼルは荷を整えながら指示を出す。


まず、プレセアとソニアへ視線を向けた。


「……ここへ来る途中にあった商店街で、食料の調達をお願いします。二人なら問題ありませんよね」


プレセアが鞘に指をかけながらうなずいた。


「わかったわ。一週間分くらい買ってくるから、すぐ戻るわね」


「任せてください」ソニアも穏やかに頷き、お金の袋を受け取った。


二人が通りの向こうへ姿を消すのを見届けると、ヴェゼルはエスパーダとともに外へ出ることにした。


その前に、ルドルフとシャノンに声をかける。


「二人はここで留守番ね」ルドルフは耳を伏せ、小さく「ワフ」と鳴いた。


ヴェゼルはしゃがんで頭を撫でる。ルドルフはしぶしぶ、しかし大人しくソファへ座り、その横へシャノンが寄り添い腰を下ろした。二人の距離感は奇妙だが、確かな仲の良さがあるようではある。


ヴェゼルは微笑んで言う。「夜には一緒に寝ようね。だから、お願い」


ルドルフは名残惜しげに鼻を鳴らし、ようやく落ち着いた。


外に出ると、遠くに神殿の白い壁が大きくそびえて見える。


その周囲は高位聖職者の邸宅が軒を連ねるというが、いま彼らが借りている薬師の家だけは、ひどく場違いなほど質素でこぢんまりとしている。


だが、その質素さは不思議と、ここに住んでいた薬師の信念をよく物語っていた。


――元は聖職者でありながら、庶民のために薬師として働くことを選び、格安で薬を配り、時には治療まで施していた老婆らしい。


高位聖職者への昇格を勧められても、市の人々から離れることを嫌って断り続けた。


市井の人気は高く、評判も良かった。華美な装飾を嫌い、この控えめな家を望んだ理由もそこにあるという。


そしてその薬師を守るために、逆に神殿のそばに家が建てられた――と、エコニックは語っていた。


その薬師が亡くなった後も、庶民の尊敬は消えず、誰もこの家に手をつけようとしなかった。


ただ、聖女であるエコニックだけは、市民も納得して受け入れ、聖務の空き時間に月に一度程度ここで治療をしていたのだ。


ヴェゼルとエスパーダはそのな道を、散策を装って歩いていく。


もちろん目的は下見だ。


エスパーダはかつて主教として祭壇に立っていたが、いまは念入りに変装を施し、老人のように姿勢さえ変えている。


彼の過去を知る者が見ても、まず気づくことはないだろう。


家から神殿までは歩いて三分。市井に溶け込むように歩けば、誰も不審がらない。門の近くではクルセイダーが巡回している。


ヴェゼルとエスパーダが彼らとすれ違った瞬間、兵の一人がちらりと視線を向けたが、ほんの一瞬で興味を失ったようにその視線は前へ戻った。


その一瞬にわずかに胸が冷えたが、怪しまれてはないようだ。


このような警備体制は、フリード達ビック領の人間が、復讐のために襲撃にきたとは知られていないようだ。それが確認できたのは幸いだった。


さらに歩いて観察を続けるうちに、クルセイダーは二人一組で行動し、約十分間隔で巡回していることも把握できた。


ヴェゼルは神殿と家を結ぶ線を頭の中で引きながら呟いた。


「……あの家の位置なら、掘り進めば百四十から百五十メートルほどで外壁下に届きますね」


エスパーダも神殿の巨大な影を見上げながら頷いた。


「ええ。あそこの木の生えているあたりを目指して穴を掘るのが良いと思います。そして、この壁から内部までは、さらに百メートルほど。そこに行ければ……神殿に入れます」


二人の会話は静かに続き、聖都のざわめきの中で、ただ彼らの足音だけが静かに響いていた。



戻ってきた家の奥で、早速ヴェゼルはエスパーダと一緒に倉庫部屋の床板を静かに外した。


冷たい空気がわずかに流れ込み、薄暗い床下が口を開ける。


地面に降りて彼は片膝をつき、指先で土に触れた瞬間、魔力が淡く震え、土が吸い込まれるように収納箱へと沈んでいった。


「収納……共振位相」


呟いた声に合わせ、収納箱の中で土が圧縮されていく。無駄のない動きだった。


まず床下に二メートル四方の空間を開け、そこから三メートル真下へ。さらに横へ七十センチ幅で五メートルほど掘り進める。


土の量は普通ならばかなりのはずだったが、収納箱の中では共振位相で、すでに元の地面のサイズよりも圧縮されている。


その様子を眺めていたエスパーダが、思わず息を漏らす。


「……見事なものですね。神殿の壁までの距離が想定より長かったですが……これなら問題ないでしょう」


ヴェゼルは額に触れた汗をそっと拭いながら言った。


「ええ。まだ余裕はあります。崩落しないよう補強も入れながら進めますね」


その時、扉が開き、外の冷気をまとったフリードとエコニックが戻ってきた。二人の背後から少し緊張の匂いが漂ってくる。


フリードが腕を組みながら言った。


「報告は済ませてきたぞ。あちらには妙な疑念を持たれんよう、筋を通して話してきたらしい」


エコニックも細く息を吐いた。


「兵士たちには、メリーバ村で不審があったため、当面の調査で滞在している……と伝えました。私の馬車は、たまたま居合わせた冒険者に護衛されて戻った、という形にしています。……この騒動が終わったら、兵士達の遺族に…説明します…」


ヴェゼルが首をかしげる。「タンドラ様には……?」


エコニックは胸の前で指を軽く組んだまま、わずかに目を伏せた。


「……長旅の疲れで体調を崩したので、しばらく施術院の家で休むと伝えました。詳細な報告は、体調が戻り次第……と」


フリードが苦く笑って肩をすくめる。


「エコニックさんは父上に余計な負担をかけたくなかったんだろう。エスパーダさんも、その方が安全だと判断したらしいしな」


エコニックのまつげが微かに震えた。


「……父に嘘をつくのは正直つらいですが……でも、今は……教国のために、必要だと……」


か細い声は揺れながらも、確かな覚悟を帯びていた。


静まった家に、床下の穴から漂う冷たい気配がわずかに満ちる。


掘り進めた暗闇だけが、これから踏み込む危険な未来を示しているようだった。




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