第378話 聖都に入る
いよいよ聖都の外縁が視界に入った頃、街道には寒気とは別のざわめきが漂い始めていた。行き交う教国民や商人たちの数は目に見えて増え、しかしその誰もが疲れ切った顔で、ただ前へと歩くだけのようだ。
彼らの中には、エコニックたちの乗る馬車を見た瞬間、まるで憎しみを凝固させたような目で睨みつける者もいた。
高位聖職者用の外装を施したこの馬車は、教国が民へ敷く苛烈な政策を象徴する“走る怨嗟の的”にほかならず、ヴェゼルはその重さを否応なく飲み込まされる。
人波が濃くなるにつれ、余計な注目を浴びたくない今は、魔物のような犬のようなルドルフをようやく馬車内へ押し込むことにした。
しかし車内はすでに密度が高い。入口でルドルフは「むり」の意を込めて一声小さく吠えたが、容赦なくエスパーダに押し込まれ、最終的には皆の足元でちんまりと震える羽目になった。
やがて城門が迫り、一般用、商人用、聖職者用と三つに分かれた門前では、一般入口だけが混雑を見せていた。一方、聖職者入り口は閑散としており、馬車はすっと吸い込まれるように進む。
御者席のフリードは背中を真っすぐに伸ばして慎重に手綱を握り、エスパーダは帽子を深くかぶり直す。車内ではエコニック、フェートン、ヴェゼル、プレセア、ソニアがそれぞれ緊張の息をひそめていた。
「そこの馬車、乗っているのはどなたですか」
検問の兵士が近づくと、フリードは落ち着いた声で答えた。
「教国の聖女、エコニック様でいらっしゃる」
その瞬間、エコニックが少しだけ窓を開け、静か顔を出す。「いつもご苦労様です」
兵士は驚きに背筋を伸ばす「「聖女様でありますか! どうぞお通りくださいませ!」
そう言ってすぐに道を開いた。馬車の改めすらなく通されるのは異例だが――それだけ、この国で聖女の名は絶対なのだと分かる。
そして城門を抜けた途端、整然とした街並みのはずなのに、人々の活気がまるで失われていることにフリードが舌打ちを漏らした。
大通りはまだ体裁を保っているが、大通りの隙間から時折見える裏路地へ目を向ければ、ゴミが散乱し、怪しげな影がゆらゆらと蠢いている。
通行人たちも、馬車を見れば同じ反応だ――顔をしかめてそっぽを向くか、何かを小声で呟くか。
この街は美しく整えられているはずなのに、どこかが冷たく濁っている。
そしてヴェゼルは、聖都とは信仰の中心ではあっても、決して民の救いではないのだと、皮肉なほど鮮やかに理解させられた。
相変わらず、通りを歩く人々の顔が一様に沈んでいる。視線のどれもが濁り、ヴェゼルたちの馬車を見ると憎悪の色を隠そうともしない。
フェートンの案内で馬車は生活区へ入り、かつて薬師だった老婆の家の前で止まる。
老婆が亡くなってからは空き家になっていたが、神殿に近いため、エコニックが施術の場として時折使っていたという。
ヴェゼルと犬猫たち、プレセア、ソニア、エスパーダが順に降り、家の玄関へ向かった。フリードは馬車を返すため御者席から降りず、エコニックとフェートンはメリーバ村の件を適当に報告した後、ここへ戻る段取りになっている。
「俺たちは馬車を返してくる。あとは神殿に軽く報告してから戻るそうだ」
エコニックも頷いた。「すぐに済ませます。……余計な詮索をされなければ良いのですが…」
フリードとエコニック達が馬車を走らせて去っていき、家の中には静けさが落ちた。埃は多少舞うものの、暮らすには支障がない程度だ。
外観こそ古く年季が入っているが、長く大事に使われてきたのだろう。室内に踏み入れた瞬間、乾いた薬草の匂いがかすかに残っていた。
ヴェゼルは靴裏を軽く払った。
「……住むように整えるには時間がかかりそうですが、拠点としては十分ですね」
エスパーダが周囲を見まわす。
「はい。人目を避けるには適しています。それに、神殿までも近いですからね」
その近さが、この家の価値を静かに示していた。
老婆の手入れがそのまま残った家は、聖都の沈んだ空気とは異なり、必要なだけの静けさを保っている。ヴェゼルたちはここを拠点に、次の段階へ向けて準備を整え始めるのだった。




