第369話 道中での遭遇09
夜営地の火は小さく揺れ、湿った夜気が、張り巡らせた縄の隙間から忍び込み、テントの布をかすかに鳴らしていた。休息には程遠い静けさである。
エコニックは一度は自分の寝所に戻ったものの、胸に沈んだ違和と焦りが形を崩さず、まぶたを閉じても心が騒ぐだけだった。
エスパーダが告げた言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
そして決意したように身を起こし、焚火のもとに戻ると、ちょうど薪を調整していたエスパーダがいた。
彼にヴェゼルの居場所を尋ねると、苦い笑みを浮かべて指を伸ばし、先ほどサクラと犬と猫が入っていったテントを指し示した。
なぜそこなのか、と訝しむ思いはあったが、結局そのまま足を向けることにした。
近づくほどに、テントの中から寝息や細やかな気配が複数混じる。エコニックは入口の前で立ち止まり、胸の奥で騒ぐ思いを一度息で落としてから、そっと声をかけた。
「……ヴェゼル様。少しお話をお聞きいただけますでしょうか」
その声に最初に応じたのは、ヴェゼルでも犬でも猫でもなく、さらに奥から滑るように動いた影だった。
布の隙間からひょこりと顔を覗かせたのは、夜に入ると精霊体へと移行するサクラで、今は十代半ばの少女ほどの姿になっている。
月光に照らされた頬は淡く光り、まるで夜そのものが形をとったようであった。その静かな気配に、エコニックは思わず背筋を正した。
エコニックはその変化を知らず、ぽかんと口を開けたまま固まった。サクラは顎を上げ、ふんと鼻で笑って言う。
「なにその顔。サクラよ。夜になるとね、勝手に伸びるの。婚約者と寝るくらい当然でしょ?」
さらにその下から、ぬっと二つの影が伸びて顔を出す。ルドルフとシャノンである。
三段重ねの顔が縦に並ぶ異様な光景に、さすがのエコニックも言葉を喪った。
サクラが夜になるとなぜ大きくなるのか、ある程度精霊や妖精のことは父から教えられているとはいえ、いくらエコニックでも説明のつけようがなく、理屈よりも先に戸惑いが胸を支配した。
だが、今さら問いただすのは無粋だと自らに言い聞かせ、喉元までせり上がった「婚約者といえど同衾は……」という常識的な叱責も、空気を読んで苦く呑み込み、胸の奥へ押し戻した。
「その……お話したいのは、ヴェゼル様で」
そう言い直すと、サクラはすぐさま眉をひそめた。
「もう婚約者は定員オーバー! 明日にして!」と言い、幕を閉めかける。
「違います! 明日以降のご相談でして――」
必死に言い切ると、テントの中で不穏なざわめきが起こり、数息ののち、不機嫌そうな足音を伴ってヴェゼルが姿を見せた。
「寒いから早く帰ってきてね!」と背後からサクラ。
「……俺は湯たんぽかよ」とヴェゼルは小さく毒づく。
ルドルフは周囲を見回したあと、何かを察したらしく、ピンと耳を立て『周囲、見てくる』と闇に溶けた。シャノンは当然のような顔をしてヴェゼルの後ろについてくる。
焚き火の前にはフリードが座っていた。焦げた匂いを纏いながらも、どこか牧歌的な安心感を纏う大男は、気を利かせたつもりで言う。
「席、外そうか?」
しかしエコニックは首を振る。「いえ……聞いていただきたいのです」
彼女はためらいながらも語り始めた。教国で噴き出した矛盾、堕落した聖職者たち、貧民街に溢れる孤児、そして失われたアトミカ教からの本来の研究の系譜。
その中心に座す高位聖職者や総主教の享楽と、風の精霊の暗躍や聖の精霊の沈黙。聖女として宣託を受けたはずの自分にも何一つ説明されぬまま、教国の舵は彼らの手に落ちたこと。
「元々、私を幼少の頃から教え導いてくださったのはエスパーダ様でした。アトンと共に……」
その名にフリードが頷いた。「アトンさんか」
「アトンをご存じなのですか?」
「エスパーダさんの奥さんだろ。先日結婚したんだ」
あまりに軽い言い方に、エコニックは思わず瞬きをする。
教国では“出奔した叛徒”と記録されていたはずの友が、いつの間にか新しい未来を得ていた事実、なおかつエスパーダの妻になっていたなどと。胸の奥で未練とも寂しさとも違う何かが軋む。
だがヴェゼルは容赦がなかった。
「で、教国の腐り具合は分かった。アトンさんが結婚したことは伝えた。で? お前は何を望んでる?」
少年の声音には、二度の襲撃とヴァリーの影が渦を巻いているようだった。エコニックはその刺を理解しつつ、震えないよう唇を結ぶ。
「……私もあなた方と同行し、教国の未来を見極めたいのです」
焚き火がぱちと爆ぜ、ヴェゼルの目が細く吊り上がる。
「それで? 俺たちに何の得がある? 足手まといは願い下げだ」
「侵入経路です。私がいれば、聖都の神殿区までは従者、もしくは客人として自然に入れます」
フリードが腕を組む。「それは、悪くない作戦だな」
どこか嬉しそうな声で言うその父に、ヴェゼルは「作戦ってほどでも……」と低く漏らす。
エコニックが続ける。
「ですが……そもそも、どのようにして総主教様と風の精霊様を打倒するおつもりだったのでしょう? 何か策がおありでしたか?」
フリードが胸を張った。
「決まってるだろ! 教国にドーンと行って、神殿にザーッと入って、総主教と風の精霊をボッカーンとぶん殴るんだ!」
焚き火がまたぱち、と弾けた。エコニックは、完全に凍った。
(……これは、策がないという意味なのでは? ヴェゼルさんのような年頃の子供がこれを言うと微笑ましいのでしょうが……本当にこの方が、民が笑って暮らせる領地を治めているというのでしょうか……?)
ヴェゼルは額を押さえ、小さく嘆息した。
「……そんな単純じゃないっての」
フリードだけがなぜか誇らしげだった。




